日本の哲学者
名前:鶴見俊輔
生年月日:1922年6月25日
学派:
研究分野:思想史
特記すべき概念:アメリカのプラグマティズムを日本に紹介
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年6月25日 - )は、評論家、哲学者、大衆文化研究者、政治運動家。
目次
1 人物
2 略歴
3 著書
3.1 単著
3.2 共著
4 翻訳
5 受賞歴
6 家族
7 エピソード
8 脚注
9 参考文献
10 外部リンク
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東京市(現・東京都)生まれ。アメリカ留学から帰国し第二次世界大戦時には結核持ちであるにも関わらず徴兵検査に合格したため、徴兵を避けるために海軍軍属に志願した。戦後海軍を除隊したあと『思想の科学』を創刊し、『共同研究 転向』など思想史研究を行う。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後言論界の中心的人物とされる。
ベトナム戦争期は「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の中心的な人物として活躍した。九条の会の呼びかけ人の1人でもある。反戦活動を行う中で、戦中海軍軍属に志願した事に関しては「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している[1]。
肩書きや職業、学歴や家柄にこだわる権威主義的な面がある[2]一方、大衆文化へ着目しており、趣味は漫画を読むこと。漫画評論の先駆けの一人でもある。テレビ番組『ハケンの品格』がお気に入りで、派遣社員と軍属時代に翻訳と新聞発行を一手に引き受けていた自分と同番組で描かれていた「派遣社員」とが重なって見えると語っている。[3]
略歴
1922年 東京市麻布三軒家町に生まれる、政治家・鶴見祐輔の長男
1929年 東京高等師範学校付属小学校入学(現・筑波大学附属小学校。同級生には後の文部大臣の永井道雄、後の中央公論社社長の嶋中鵬二、作家の中井英夫など)
1935年 府立高等学校尋常科入学
1936年 同校退学、東京府立第五中学校(現・都立小石川高校)編入
1937年 府立第五中学校退学
1938年 アメリカマサチューセッツ州コンコード町ミドルセックススクール入学
1939年 ハーヴァード大学哲学科入学
1942年 同科卒業、学士論文「ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム」
クワインの最初の生徒。戦時交換船で日本に帰国(数学者角谷静夫と乗り合わせていた)。船内で20歳になり、帰国後に徴兵検査で第二乙種合格となり、召集令状(赤紙)が届く前に海軍の軍属に志願し、ドイツ語通訳として従軍。
1948年 京都大学嘱託講師
1949年 京都大学人文科学研究所助教授
1954年 東京工業大学助教授
1960年 日米安保条約決議に抗議し東京工業大学教授退官
1961年 同志社大学文学部社会学科教授
1970年 大学紛争で同志社大学教授を退任
単著
『哲学の反省』 先駆社, 1946
『アメリカ哲学』世界評論社、1950 のち講談社学術文庫
『哲学論』 創文社, 1953
『大衆芸術』 河出書房, 1954(河出新書)
『プラグマティズム』 河出書房, 1955.
『アメリカ思想から何を学ぶか 』 中央公論社, 1958 (中央公論文庫)
『誤解する権利 日本映画を見る』 筑摩書房, 1959
『折衷主義の立場』 筑摩書房, 1961