鴻門の会
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鴻門の会(こうもん-かい)は、紀元前206年、項羽劉邦が、の都咸陽郊外で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。
目次

1 鴻門の会以前

2 鴻門の会

3 鴻門の会以後

4 その他

5 関連項目

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鴻門の会以前

紀元前207年、懐王は、関中をはじめに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。懐王は、項羽らをの救援のために北上させたが、劉邦(当時は沛公)には、函谷関より関中へ進軍するよう命じた。

命を受けた劉邦は軍を進め、秦軍と戦った。一方、秦の宰相である趙高は、二世皇帝を殺害し、関中を二分しようと提案してきた。劉邦はこれを謀略と断じ、張良の建策に従って秦の将軍を買収し、武関を攻略。関中に侵入し、秦軍を撃破した。その際、秦王の子嬰が降伏し、劉邦は遂に軍を率いて秦都咸陽へ入る。

この時、項羽はまだ関中に至っていなかった。劉邦に後れて函谷関に至った項羽は、関を守る劉邦軍の兵を見る。更に、劉邦がすでに秦都咸陽を陥落させたと聞いて大いに怒り、当陽君らを派遣して函谷関を攻撃し、関中へ入って戯西に軍を進めた。劉邦に謀反の罪を問い、撃滅してしまおうとしたのである。項羽軍は劉邦軍に比べて兵力のみならず勇猛さでも圧倒的に上であり、劉邦の命運は風前の灯となった。

項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し、一部始終を劉邦に伝えた。劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。関に兵を置いたのは、盗賊と非常時に備えたものです。これを項羽将軍に伝えてください」と言った。項伯は納得するがそれを項羽へ伝える条件として、劉邦が明朝、項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、これを劉邦は受け入れた。一方の項羽も項伯のとりなしにより怒りが和らぎ、弁明を聞くことにした。そしてその翌日、後にいう「鴻門の会」が行われることとなった。


鴻門の会

明朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが通された。劉邦はまず項羽にへりくだって謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、私は河南に戦いました。思いもよらず私が先に関中に入りましたが、小人の言うところがあって、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。それに対して項羽は、「それは曹無傷が言った事だ」と返した。

項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて上座に座った。范増は南向き、劉邦は北向き、張良は西向きにそれぞれ座った。宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀反を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。しかし、劉邦が卑屈な態度を示して項羽を煽て続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。

この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊?に事態の深刻さを伝えた。樊?は髪を逆立てて宴席に突入し、「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊?はそれを一気に飲み干した。更に、豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊?は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊?は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。秦王は暴虐で、人々は背きました。懐王は諸将に、先に咸陽に入ったものを王にすると約束しました。沛公は先に咸陽に入りましたが、宝物の略奪もせず、覇上に軍をとどめ、将軍(項羽のこと)の到着を待っていました。関に兵を派遣したのも、盗賊と非常時に備えるためです。未だに恩賞もないのに、讒言を聞き入れて功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではありませんか」と述べた。これに対して項羽は返す言葉がなく、「それほど心配なら、ここに座っても良いぞ」と言うのみだった。

その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊?と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。この際張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。

贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は「こんな小僧とは謀略など出来ない!」と激怒し、贈り物の玉斗を剣で砕いてしまう。さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう、と言った。劉邦は自軍に戻ると、項羽に讒言をした曹無傷を直ちに殺した。


鴻門の会以後

鴻門の会において劉邦の釈明を受け入れた格好になった項羽は、劉邦を討つ大義名分を失う。天下を平らげ劉邦を蜀巴の地へ左遷はしたものの、ここで劉邦を討てなかったことが後の敗北につながった。 また范増も項羽が劉邦を討たなかったことに憤慨し、後々の離間の遠因となる。范増を失った楚軍は張良・陳平の策謀に対抗する力も失った。

この鴻門の会は劉邦最大の危機であったが、劉邦は臣下の進言を受け入れてその通りに行動し、また臣下も身命を賭して主君の危機を救った。これと対照的に、自らに実力があり自信もあったが故に臣下の進言を聞かなかった項羽は、その後悲劇的な運命をたどる。


その他

「鴻門の会」は、司馬遷の著した史記の項羽本紀や、十八史略に記述され、古くから日本人に親しまれてきた。高校教科書等にも、漢文の教材として必ずといっていいほど掲載されている部分である。


関連項目

楚漢戦争

この「鴻門の会」は中国の歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
カテゴリ: 中国の歴史関連のスタブ項目 | 楚漢戦争 | 中国の言葉の文化 | 慣用句

更新日時:2008年6月15日(日)19:27
取得日時:2008/08/21 06:45


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki