鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。
その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。
目次
1 筑紫の鴻臚館
1.1 筑紫館
1.2 大宰鴻臚館
1.3 建設位置と発掘調査
2 難波の鴻臚館
3 平安京の鴻臚館
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
//
筑紫の鴻臚館は現在の福岡県福岡市中央区城内にあった。福岡城敷地内に位置する。遺構が見つかっている唯一の鴻臚館である。
筑紫(現在の福岡県西部)の外交施設の原型は魏志倭人伝の時代に遡るとされる。糸島半島にあった伊都国には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。ただし施設名や場所についての記録は残っていない。
磐井の乱(527年 - 528年)の後、宣化元年(536年)に那津のほとりに宮家(遠の朝廷:とおのみかど)を設置し、九州支配と外交の役目を果たす。推古17年(609年)には筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)の名で『日本書紀』に登場。白村江の戦いの翌年(664年)に行政機能は内陸の大宰府(現在の太宰府市)に移転、那津のほとりには大宰府の機関のひとつとして海外交流および国防の拠点施設が残された。
この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として機能し、海外使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や都へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府の間は約16キロメートルだが、そこを最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が敷設されていた。ただしこの道路は8世紀内に廃道となる。持統2年(688年)には筑紫館で新羅国使全霜林を饗したと『日本書紀』に記されている。また海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられた。天平8年(736年)に新羅へ派遣される遣新羅使が筑紫館で詠んだ歌が『万葉集』に収録されている。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館はまた外国商人らの検問・接待・貿易などに用いられた。
鴻臚の名は入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述に初めて登場する。承和5年(838年)には第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したとあり、承和9年(842年)の太政官符にも鴻臚館の名が記載されており、嘉祥2年(849年)には唐商人53人の来訪が大宰府から朝廷へ報告されている。
天安2年(858年)には留学僧円珍が商人李延孝の船で帰朝し、鴻臚館北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。貞観3年(861年)および貞観7年(865年)には李延孝が再び鴻臚館を訪れている。この傾向は菅原道真により寛平6年(894年)に遣唐使が廃止されたのちに強まった。
当初鴻臚館での通商は官営であった。商船の到着が大宰府に通達され、大宰府から朝廷へ急使が向かう。そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げた。残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在。宿泊所や食事は鴻臚館側が供出した。その後延喜3年(903年)の太政官符には朝廷による買上前の貿易が厳禁されており、貿易が官営から私営に移行していることが窺える。そして延喜9年(909年)には唐物使に代わって大宰府の役人に交易の実務を当たらせている。
貞観11年(869年)の新羅の入寇の後、警固所として鴻臚中島館を建設し大宰府の兵や武具を移した。また1019年の刀伊の入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これも鴻臚館の警固所を指しているとされる。
やがて時代が下って北宋・高麗・遼の商人とも交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになって現在の博多から箱崎の海岸が貿易の中心となり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館での貿易は衰退。