鮮卑
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鮮卑(せんぴ、紀元前1世紀? - 6世紀)は中国北部に存在していた民族魏晋南北朝時代には南下して中国北魏などのを建てた。
目次

1 概要

2 歴代王朝・君主

2.1 遼西鮮卑

2.2 北鮮卑

2.3 壇石槐鮮卑

2.4 西鮮卑

2.5 東鮮卑

2.6 厥機鮮卑

2.7 彌加鮮卑

2.8 宇文部鮮卑

2.9 段部鮮卑

2.10 拓跋部鮮卑

2.10.1 代

2.10.2 北魏

2.10.3 西魏

2.10.4 東魏


2.11 慕容部鮮卑

2.11.1 前燕 

2.11.2 後燕

2.11.3 南燕

2.11.4 北燕

2.11.5 西燕

2.11.6 吐谷渾


2.12 禿髪部鮮卑

2.12.1 南涼


2.13 乞伏部鮮卑

2.13.1 西秦



3 関連項目

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概要

鮮卑は東胡から出た民族で、言語学的にはモンゴル語系統という定説が根強いが、同時にテュルク系とツングース系との混血とする説もかなり有力である。紀元前には大興安嶺山脈の麓で牧畜狩猟を生業としており、匈奴に服属していた。その後、匈奴が北と南に分裂すると前漢にも繋がる部族が出始め、半独立状態になった。

1世紀になり北匈奴が後漢との抗争を続ける間に力を蓄え、北匈奴をモンゴル高原から西に追いやった。2世紀半ばに檀石槐が登場すると族の統合に成功し、強大となった。しかし檀石槐の死後は再び分裂した。

後漢が滅び、西晋の皇族の中で八王の乱が起きると鮮卑族は傭兵として雇われ、徐々に中国内部に移住するようになった。

五胡十六国時代に入り、匈奴劉淵が西晋から独立して前趙を建てると、鮮卑族もこれに倣い、中国に国を建てた。

この頃の鮮卑は六つの部がそれぞれ有力となっていた。(括弧の中はそれぞれが建てた国)

慕容部 (前燕後燕西燕南燕

段部

宇文部 (北周

乞伏部 (西秦

禿髪部 (南涼

拓跋部 (北魏

この他、慕容部から分かれて西遷した吐谷渾も鮮卑系だが、現地の羌人と融合しているとされる。

拓跋部の北魏439年に華北を統一し、これ以降は南北朝時代となる。その後楊堅により中国が統一されるが、楊堅は宇文部が立てた北周の外戚であり、自身も鮮卑の出身である可能性がある。同じく北周の貴族であった李淵もまた鮮卑出身である可能性が考えられる。また、北斉高歓漢化した鮮卑系の可能性が高いと思われる(鮮卑化した漢人という説もある)。なお、北周の宇文部は鮮卑化した匈奴の一派と考えられ、テュルクの影響が濃く見られるという。

隋統一後の鮮卑族は漢民族に同化して行き、民族としてのまとまった動きは見せなくなった。また、の代表格の詩人で官僚でもあった元好問は北魏の帝族の末裔だといわれる。


歴代王朝・君主

於仇賁( - 54年 - )


?(カイ广+鬼)(率衆王)(和帝の時代)


燕茘陽(鮮卑王)(安帝の時代)


遼西鮮卑

連休(安帝の時代)


北鮮卑

烏倫其至?(安帝から順帝の時代)


壇石槐鮮卑

1.檀石槐(155?年 - 181年


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki