魁傑將晃
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魁傑 將晃(かいけつ まさてる、1948年2月16日 - )は、花籠部屋所属の元大相撲力士。最高位は大関。本名は西森輝門(にしもり てるゆき)。得意技は、突っ張り、左四つ、寄り。身長188cm、体重128kg。"黒いダイヤ"“怪傑黒頭巾"の異名がある。
目次

1 来歴

2 主な成績

3 各段優勝

4 三賞・金星

5 改名歴

6 年寄変遷

7 関連項目

8 外部リンク

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来歴

山口県岩国市に生まれ、小学校3年生まで岩国市にて過ごし、その後山口県下関市に移り住み、日本大学に進学するまで下関市で過ごした。下関市立日新中学校時代に柔道を始め、山口県立下関中央工業高等学校では柔道部の主将になった。講道館で行なわれた紅白試合で6人抜きを達成して講道館3段と銀盃が与えられるなどの実績を見て、花籠親方(前3・大ノ海久光)がスカウトに来るが本人はこれを断わり日本大学に進学。しかし花籠親方が父を説得したことを知って入門を決意、大学を1年で中退して1966年(昭和41年)9月場所で初土俵を踏んだ。

最初は花錦という四股名だったが、本人はこれを自分には合わないとして嫌っていた。後に改名することになった際に女将さんによって魁傑と命名されると(本人は別の候補を選んだらしい)、これが昔中国で活躍した武将の名であることを知って大いに気に入り以後は相撲に熱が入るようになった。

1971年(昭和46年)9月場所に新入幕、この場所は7勝8敗と負け越すが幕内にとどまり、11月場所は8勝7敗、1972年昭和47年)1月場所は7勝8敗、どうにか幕内を維持しているといった程度の凡庸な成績が続いた。しかし3月場所は絶好調で、横綱北の富士とこの場所大関とりとなる関脇長谷川らを倒して12勝3敗、長谷川との優勝決定戦では作戦にはまって残念ながら負けて準優勝に終わった。この頃から輪島貴ノ花らと並んで「阿佐ヶ谷トリオ」として注目され、特に魁傑は女学生に絶大な人気を博した。

1972年5月場所は新三役となる小結に昇進して11勝4敗(この場所のエピソードとして、9日目に大関・大麒麟との取組でマゲを引っ張られ反則勝ちとなる)、7月場所は関脇に昇進して10勝5敗、大関に向けて大きく飛躍した。流石に1度は跳ね返されたが、その後は三役に定着し大関目前となる場所もあった。1974年(昭和49年)11月場所には小結で12勝3敗、決定戦で弱いと評判の横綱・北の湖との優勝決定戦で一方的に突き出して初優勝。翌1975年(昭和50年)1月場所でも11勝4敗の好成績を収め、3場所通算で30勝15敗+優勝1回の好成績により大関に推挙された。

新大関となった1975年3月場所は11勝4敗、翌5月場所は12勝3敗でこの場所は優勝した北の湖を千秋楽に撃破して2敗とした。優勝1点差で準優勝となり、綱取り場所となった7月場所は8勝7敗と不調。肘の故障で得意の攻めが出せず、続く9月場所、11月場所は2場所連続で6勝9敗と負け越して大関から陥落し、1976年(昭和51年)5月には平幕6枚目まで下がった。

しかし9月場所では14勝1敗で2度目の優勝、11月場所には関脇に復帰して11勝4敗、1977年1月場所も11勝4敗の好成績を収め、3場所通算で36勝9敗の好成績により若三杉とともに大関推挙を受けた。本来大関推挙を伝える使者が来るのは通常1度きりのところ、返り咲きとなる魁傑にも使者が送られた。2度大関の使者を受けたのは、現在までただ1人である。本人はその時「一度大関の名を汚しちゃったので、(口上で)何と言えばいいのかなあ」と言っていたらしい。

しかしせっかく大関に戻ったのに8勝7敗が2場所連続続き、またしても肘の故障に悩まされ、1977年7月場所、9月場所を連続負越して再び大関から陥落した。2度目の陥落後も横綱や大関との名勝負を繰り広げ、ファンは史上初となる3度目の大関昇進を願ったがついに果たせず、1979年(昭和54年)1月場所11日目で引退した(4勝7敗、引退当日の不戦敗は除外)。印象に残る取組として、引退する前年の1978年(昭和53年)3月場所7日目、大関旭國との対戦で水入り、再水入りでも勝負がつかず、10分後取り直しとなり三度水入りとなる寸前に掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番がある。ちなみに魁傑はこの一番の前日の6日目、大関若三杉とも水入りの相撲を取っており(この時は敗戦)、旭國も膵臓炎で場所前に退院したばかりであった。

度重なる負傷により、好不調の波が激しかった。特に左肘の状態がひどく、このために大関から2度陥落したがその負傷さえなければ横綱になっていたという評価は現在でも耳にする。また現役中の名言は、休場力士が出ると度々新聞に掲載され、相撲ファンの間では安易に公傷を認める日本相撲協会に対する投書に使われたこともある。また腰が高いという欠点もあって、相撲解説者・玉の海梅吉は、四股名をもじって「魁傑は未解決だね」と言っていた。どうやら強弱の差が激しく、強みと弱みが表裏一体であるといった意味だったらしい。

「休場は負けだ」との名言を残し(「試合放棄だ」と言ったこともある)、不調で黒星が続いても決して休まず戦う姿はファンの人気を集め、また誠実な土俵態度とあいまって力士の手本と評され名大関と呼ばれた。現役時代の後援会長は同郷の佐藤栄作が、死去するまで務めた。

引退後は年寄・17代放駒を襲名し、1981年(昭和56年)に花籠部屋から分家独立した(この時移籍した内弟子の中に後の横綱となる大ノ国がいた)。その後、弟弟子で12代花籠を継承した輪島が借金の担保に年寄名跡をあてがうという事件が発覚して廃業すると、一門の長老であった二子山親方(横綱・初代若乃花)に指名されて花籠部屋の弟子全員を引き取ることになり、放駒部屋は小部屋から一気に大部屋へと躍進した。

現役時代に見せた誠実さは年寄になってからも評価され、引退後1年で審判委員に抜擢される。その後は協会の常勤役員(役員待遇)として事業部副部長、広報部副部長などの要職を十数年に渡り務め、2006年1月場所後に理事へ昇進し、審判部長の要職に就いた。しかし2006年7月場所で優勝次点ながらも4場所連続で13勝以上した大関・白鵬の横綱昇進と、3場所通算で34勝した雅山の大関再昇進について見送る旨の発言をし、好角家から大きな反発を招いた。

白鵬の直前3場所の成績(13勝の同点優勝+14勝の優勝+13勝の優勝1点差)は放駒親方の弟子・大乃国の横綱昇進時の成績(15戦全勝+12勝の優勝1点差+13勝の優勝1点差)を上回り、雅山の直前3場所の成績(34勝11敗)は魁傑自らの大関昇進時の成績(優勝1回を含む30勝15敗)を上回るものであり、その整合性のなさが指摘された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki