高松塚古墳
高松塚古墳(外観)
位置 ⇒北緯34度27分44.0秒
東経135度48分23.3秒
所在地奈良県高市郡明日香村平田
形状二段円墳
規模直径23m、高さ5m
築造年代藤原京期
(694年?710年)
被葬者不明
出土品壁画(国宝)、銅鏡など
史跡指定1973年(昭和48年)特別史跡
表・話・編・歴
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年?710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
目次
1 発掘調査
2 古墳の年代
3 被葬者
4 石室・壁画
5 文化財指定
5.1 特別史跡
5.2 国宝
5.3 重要文化財
6 壁画の劣化、今後の課題
7 記念発行物
8 脚注
9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク
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高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった[1]。奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、現場での発掘は伊達宗泰と関西大学助教授の網干善教を中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによって行われた。石室(せきしつ)が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年3月21日のことである。古墳は1973年4月23日、特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定されている。
古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出された。極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見としてトップニュースとなり、文化庁はさっそく壁画の保存対策および研究調査にとりかかった。壁画発見からほどなく高松塚古墳応急保存対策調査会が設置され、発見から1か月も経たない1972年4月6日と4月17日に初の学術調査が実施された。また、応急保存対策調査会とは別に、考古学、美術史、保存科学などの専門家から構成される高松塚古墳総合学術調査会が設置され、1972年10月に同調査会による学術調査が実施された。
なお、高松塚古墳の埋葬施設は考古学的分類では「横口式石槨」(よこぐちしきせっかく)と呼ばれるものであるが、本項ではより一般的な「石室」の語を用いる。
盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、藤原京期(694年?710年)の間だと確定された[2]。
被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。
天武天皇の皇子説
忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説。
忍壁皇子説を唱える代表的な人物は、直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)、猪熊兼勝(京都橘女子大学教授)、王仲珠(中国社会科学院考古研究所研究員)ら。根拠は46、7歳で死亡したと見られる忍壁皇子が出土人骨の推定年齢に近いことと、人物像の服装など。
高市皇子説を唱える代表的な人物は、原田大六(考古学者)、河上邦彦(奈良県立橿原考古学研究所副所長、現神戸女子大学教授)、豊田有恒(作家)ら。
弓削皇子説を唱える代表的な人物は、菅谷文則(滋賀県立大学教授)、梅原猛(哲学者)ら。