高代延博
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高代 延博
中日ドラゴンズ No.81
基本情報
国籍 日本
出身地奈良県吉野郡下市町
生年月日1954年5月27日(54歳)
身長
体重170cm
73kg
選手情報
投球・打席右投右打
守備位置内野手
プロ入り1978年 ドラフト1位
初出場1979年4月7日 ロッテ戦(後楽園)
経歴


智辯学園高等学校

法政大学

東芝

日本ハムファイターズ(1979 - 1988)

広島東洋カープ(1989)

■Template  ■ウィキプロジェクト 野球選手

高代 延博(たかしろ のぶひろ、1954年5月27日 - )は、奈良県出身の元プロ野球選手。現中日ドラゴンズの野手総合チーフコーチ。1985年から1988年の登録名は「高代 慎也」(たかしろ しんや)。
目次

1 来歴・人物

2 背番号

3 エピソード

4 年度別打撃成績

4.1 個人記録


5 表彰

6 関連項目

//


来歴・人物

智辯学園高校から法政大学東芝を経て、1979年ドラフト1位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団、1年目から遊撃手のレギュラーに定着し、ゴールデングラブ賞を受賞。翌1980年にはベストナインにも選ばれた。1981年のリーグ優勝にも貢献する。

170cmに満たない体格であったが、その熱血漢ぶりには定評があり、菅野光夫古屋英夫らと共にチームの主力として活躍した。1988年オフ戦力外通告を受け、1989年、新監督に就任が決まった大学の先輩である山本浩二に請われ、広島東洋カープに移籍、その年現役引退した。1979年、1980年、1983年にオールスターゲームに出場している。

引退後は、1990年?1998年広島で一軍守備走塁コーチ、1999年?2001年中日ドラゴンズ一軍守備走塁コーチ、2002年は古巣日本ハム、2003年千葉ロッテマリーンズで一軍ヘッド兼守備走塁コーチ、2004年からは再び中日に復帰。野手総合チーフコーチ、三塁ベースコーチャーを努め、2004年、2006年のリーグ優勝に、2007年の53年振りの日本一に貢献する。2008年より三塁ベースコーチを笘篠誠治に譲っている。


背番号

2 (1979年?1988年)

5 (1989年)

70 (1990年?1995年)

81 (1996年?1998年、2004年?)

86 (1999年?2001年)

87 (2002年?2003年)


エピソード

大学の後輩である江川卓が頭が上がらない人物の一人である。

1985年の年間犠打数41は2007年に田中賢介に破られるまでは日本ハム球団の記録であった。

高代がコーチをしていた広島が三村敏之監督であった時に、再三中日の星野仙一監督から高代をコーチとして譲って欲しいと打診があった。しかし、三村は「私がいるうちは高代だけは出せない」と拒否した。それほど三村が高代のコーチとしての能力を買っていたことを表している。

広島退団後、中日へ入団した1999年、ノックを浴びせていた福留孝介立浪和義のあまりの守備の緩慢さに大激怒し、「お前ら!PLに返すぞ!」と怒鳴りし散らした(なお、高代はPL出身ではない)。

三塁ベースコーチャーとしての打球への判断がよく、セ・リーグのペナントを制した2006年は本塁での憤死をリーグ最小の1にとどめた。また、微妙な打球でも腕をグルグル回す時がある。

金本知憲が2006年に連続フルイニング出場の世界記録を更新した際の会見で、「広島時代に自分に大きな影響を与えてくれた3人」を挙げたが、その中で「守備・走塁を根気よく教えてくれた。」と高代の名前を挙げている。

ノックの名手としても知られる。スポーツ番組の取材の際、ホームベース数歩先からホームランポール根元へ狙って当てるという芸当を披露した。

現在の中日監督・落合博満とは東芝時代からの故知で(落合は東芝府中(現在は東芝本社とチームを統合)出身で東芝本社チームとも当然交流があった)、プロ入りも同年(1979年)である。ちなみに2008年シーズンの中日コーチングスタッフで落合のプロ同期生は高代のほか森繁和高橋三千丈高柳秀樹石嶺和彦がいるが、落合と石嶺を除きドラフト1位でプロ入りしている(同年プロ入りしたドラ1は10人なので、実に半数近くが同僚に)。


年度別打撃成績

年度チーム

試合打数得点安打二塁


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki