香港の歴史(ほんこんのれきし)は中華人民共和国の香港特別行政区の歴史を概観する。現代の香港、ヴィクトリア・ピークからの眺望
目次
1 香港の由来
2 初期の香港
3 明代の香港
4 清代の香港
5 イギリス植民地
6 日本の占領
7 戦後の香港
8 中英交渉
9 香港の返還
10 返還後の香港
11 関連項目
12 外部リンク
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香港の歴史
先史時代
中国王朝時代
阿片戦争アロー戦争
イギリス植民地時代
香港の戦い
日本統治時代
イギリス植民地時代
香港返還
香港の教育史
参照: 中国の歴史
イギリスの歴史
其他香港系列
文化 - 経済 - 地理 - 政治 - 教育
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広義の香港は九龍半島や新界を含むが、狭義には香港島のみを指す。この香港島南西部に香港仔と呼ばれる場所がある。香木の積出港であったところから命名されたと伝えられ、観光客にはアバディーン (Aberdeen) として知られるところである。ここが香港発祥地となる。
香港は北京語ではXiang gang(シァンガン(此時のンは鼻濁音のン))と発音する。これを英語で「ホンコン」と呼ぶ由来は、アヘン戦争に遡る。英軍が初めてアバディーン付近に上陸した時、土地の名を知らなかった。そこで地元の民に地名を聞いたところ「ホンコン」と言った。この発音は広東語のもの(heong kong)とも異なり、現地の水上生活者・蛋民の言葉である。
中国南部、珠江デルタに属する香港地区では5,000年前の新石器時代台湾文化の遺跡がランタオ島や香港島で発見されている。秦王朝が嶺南(華南)を征服すると、香港地区は中華帝国の支配下に入り、番禺県の管轄となった。
331年から756年までは宝安県、757年以降1572年までは東莞県に属している。唐代には広州が南海貿易の交易港として繁栄したため、ランタオ島から対岸の東莞を含む地域が「屯門」と呼ばれて文献にしばしば登場するようになった。この頃から香港地区では塩田が開かれ、五代十国の南漢時代から真珠採集も行われた。
1563年、明朝は香港地区の南頭に水軍基地を設置して南頭寨と称し、1565年には参将を置いて南頭寨を統括させた。南頭寨には大小戦船53隻、官兵1486人が置かれ、1591年以後は戦船112隻,官兵及雜役2008人に増加した。1552年頃から九龍の名が文献に現れ、その後香港島の地名も見え始める。1573年には新安県が新設され、県治は南頭に置かれた。新設時の新安県は約34,000人の人口が記録されている。
1514年からポルトガル人が来航して屯門を占拠したため、広東海道副使・汪?が自から督師してポルトガル人を駆逐する事件があった。その後、ポルトガル人は寧波沖のリャンポー(双嶼島)に移り、やがてマカオに定着することになる。
清代の香港19世紀頃の香港
清代に入って広州が開港すると、1699年からイギリス東インド会社などが来航するようになり、1711年には広州にイギリス商館が開設されている。イギリスは次第に中国茶を大量に輸入するようになり、貿易代金決済のためにインドからアヘンを中国に輸出し始めた。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった。当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は1票という僅差で軍の派遣を決定した。
こうして、1839年第一次アヘン戦争が勃発し、1841年1月20日チャールズ・エリオット大佐率いるイギリス軍は香港島を占領した。1842年に締結された南京条約により、香港島はイギリスに永久割譲された。
1843年6月、サー・ヘンリー・ポッティンジャーが初代香港総督に就任してイギリスの植民地としての統治がはじまったが、1856年には第二次アヘン戦争が再発し、1860年に締結された北京条約で九龍半島もイギリスに割譲される。