香淳皇后
1941年、京都御所行啓時
在位1926年12月25日-1989年1月7日
姓名良子(ながこ)
出生1903年3月6日
東京
死去2000年6月16日
東京・吹上大宮御所
埋葬2000年7月25日
武蔵陵墓地
配偶者昭和天皇
子女照宮成子内親王
久宮祐子内親王
孝宮和子内親王
順宮厚子内親王
継宮明仁親王
義宮正仁親王
清宮貴子内親王
父親久邇宮邦彦王
母親邦彦王妃俔子
香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年3月6日 - 2000年6月16日)は、昭和天皇の皇后。名は良子(ながこ)。お印は桃。
目次
1 家系
2 生涯
2.1 少女時代
2.2 皇太子妃時代
2.3 皇后時代
2.4 皇太后時代
3 皇子女
4 人となり・逸話
5 香淳皇后の登場する作品
6 関連項目
7 外部リンク
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父は久邇宮邦彦王、母は十二代薩摩藩主公爵島津忠義七女俔子(ちかこ)。祖父久邇宮朝彦親王は男子九人にめぐまれた子福者で、東久邇宮稔彦王は皇后の叔父の一人である。また、五女島津貴子の夫の島津久永は母方の従弟に当たる。
1903年(明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王の第一王女子として誕生。良子と名づけられ、久邇宮良子女王と号す。
1907年(明治40年)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は別室で昼食をとるが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と一緒であった。優しい一方運動神経に優れ(昭和天皇からゴルフを教わり、度々天皇を負かしたと伝わる)しっかりとした性格で、二人の妹が彼女の行動を全て真似ることもあったという。
同小学科を経て(1909年入学)、1915年(大正4年)には学習院女学部中学科進学。在学中の1918年(大正7年)1月14日に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定。内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたこと等が挙げられる。内定にともない学習院を退学し、同年4月13日以降久邇宮邸内に設けられた学問所で皇后としての教育を受ける。学問所は"お花御殿"と呼ばれ、妹たちの他・親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、ともに学んだ。学問所の建物はその後東京都立駒場高校に下賜され、部活動等に利用された。
1920年(大正9年)5月7日に皇太子裕仁親王が元服礼を行ったことをうけて、同年6月10日に正式に婚約。しかし、1921年(大正10年)に入って母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退をせまったいわゆる"宮中某重大事件"がおこる。事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、なかでも宮中に影響力を保持しようとする山県の策略とする見解が強かったため良子女王に同情があつまり、原敬らの反山県勢力が山県追落しにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年2月10日に宮内省から「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」の発表が行われて事件は決着した(翌日づけで新聞記事解禁)。最終的な決めてのひとつが、生物学者でもあった天皇の決断であったといわれている。
学問所での教育は2・3年前後の予定であったが、宮中某重大事件、さらに関東大震災の影響により婚儀は延期され続けた。
皇太子妃時代成子内親王を見守る皇太子裕仁親王と良子妃
1922年(大正11年)6月20日、結婚について大正天皇の勅許がくだり、9月18日に納采。