青島の戦い(ちんたおのたたかい, Battle of Tsingtao, 1914年10月31日 - 11月7日)は、第一次世界大戦中の1914年(大正3年)に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した戦闘である。
目次
1 概要
2 参加兵力
2.1 日英連合軍
2.2 独墺連合軍
3 参考文献
4 関連項目
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1897年、ドイツは青島を含む膠州湾一帯を当時の中国政府から租借、湾口の青島に要塞を建設、ドイツ東洋艦隊 ( ⇒de) を配備した。
1914年の第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告し青島の攻略に乗り出した。マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊は開戦後すぐに港内封鎖を恐れ、ドイツ本国へ向かったがフォークランド沖海戦で壊滅した。青島には駆逐艦「タークー」と「S90」が残り、S90 は10月18日0時、日本海軍の防護巡洋艦「高千穂」を魚雷により撃沈している。
1914年10月31日、神尾光臣大将指揮する第18師団(約29,000名)と第二艦隊は攻撃を開始した。ドイツ軍兵力は約4,300名であった。
11月7日午前6時30分、ドイツ軍は白旗を掲げ、午前9時20分にドイツ側軍使のルードヴィヒ・ザークセル大佐とカイゼル少佐が日本側軍使の香椎浩平少佐に降伏状を届ける。
11月7日午後7時50分に両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落した。
11月8日にヴァルデック総督は、日本軍の便宜を受けて、膠州湾青島守備軍の降伏を本国に報告する。これに対して、ドイツ皇帝よりヴァルデック総督に1級鉄十字勲章を授与したほか、守備軍の善戦を嘉する勅を発した。
多くのドイツ軍捕虜は日本各地に設けられた14箇所の捕虜収容所に1919年ヴェルサイユ条約締結まで長期に渉り収容された。トラブルも生じたが、比較的自由な取り扱いを受けた徳島県の板東俘虜収容所では地元住民との交流があり、ドイツパン、ドイツ菓子、楽器演奏、鉄棒体操等が広められた。映画『バルトの楽園』はこれを映画化したものである。
大戦終結後の1920年(大正9年)11月1日に青島要塞攻略の功によって、神尾光臣大将に功一級金鵄勲章が授与される。
日英連合軍
日本軍
陸軍青島要塞攻囲軍(司令官:神尾光臣中将(久留米第18師団長)、参謀長:山梨半造少将)
参加部隊:第18師団(久留米歩兵第56連隊ほか)、歩兵第29旅団、野戦重砲兵第3連隊、野戦重砲兵第2連隊、独立攻城重砲兵大隊、独立工兵第1大隊、独立工兵第4大隊
損害:戦死216、負傷67
海軍
第2艦隊(司令長官:加藤定吉中将、参謀長:吉田清風大佐)
巡洋艦6、砲艦4、海防艦9、駆逐艦・水雷艇31、特務艦18
損害:沈没巡洋艦高千穂 戦死54、負傷46
イギリス軍
陸軍(指揮官:バーナジストン少将)
参加部隊:歩兵1個大隊基幹、印度兵2個中隊
海軍:戦艦1隻、駆逐艦1隻
損害:戦死160、負傷23
独墺連合軍
ドイツ軍(総指揮官:アルフレート・マイヤー・ヴァルデック海軍大佐(青島総督))
オーストリア軍
損害:戦死410、負傷150、捕虜4,715
参考文献
斎藤聖二, 『日独青島戦争』, ゆまに書房、2001年、ISBN 4-87802-058-X
第一次世界大戦 - "War to End All Wars"
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