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陳水扁
中華民国第10-11代総統
任期:2000年5月20日 ? 2008年5月20日
副大統領:呂秀蓮 ※副総統
出生:1950年10月12日
台湾台南県官田郷
政党:民主進歩党
配偶:呉淑珍
陳水扁
繁体字:陳水扁
ピン音:Ch?n Shu?bi?n
注音符号:??? ???? ????
ラテン字:Ch'en Shui-pien
台湾語:Tan5 chui2-piN2
タン・ツイピイ
発音:ツェン・スイピェン
陳 水扁(ちん すいへん)は、台湾の政治家。台南県官田郷に生まれ台南客家の後裔を自称する。2000年に中華民国第十任(第六代)総統に初当選し、2004年には2期目(第十一任)の選挙にも当選し、任期満了まで務めた。それまでは台北市議員、立法委員、台北市市長、民主進歩党主席などを歴任した。
陳水扁は台湾で住民の直接選挙により選出された2番目の総統であり、初めての民進党から選出された、台湾の本土化運動を推進する立場からの総統である。台湾独立運動の筆頭とされる李登輝以上の独立志向を有しているとされ、中華人民共和国との緊張関係を発生させた。
台湾では出身が貧しい農家に生まれ、自らの努力で総統に上り詰めたばかりか、台湾の民主主義と主権独立を保護していることを評価する勢力と、言動不一致の政策能力に欠如した人物と評価する勢力が拮抗している。
目次
1 通称
2 プロフィール
2.1 出生
2.2 弁護士
2.3 政界進出
2.4 台北市長
2.5 総統選出馬
3 中華民国総統として
3.1 1期目
3.2 2期目
3.3 両岸関係と外交政策
3.4 スキャンダル
3.5 2008年の立法院選挙
4 関連項目
5 外部リンク
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通称の阿扁であるが、「阿」は中国語で人名の前に付与し親近感を表す文字であり(日本でいえば小泉純一郎に対する「純ちゃん」のようなニュアンス)、その通称で国民との親近感を演出している。これにより台湾の各種メディアでは陳水扁政権を扁政府と称すこともある。 ちなみに、学生時代から彼を知る人物は「第一名(就学時代、すべてトップの成績だったことから)」と呼ぶことがある。
陳水扁は1950年に台南県官田郷の小作農家の家庭に生まれた。出生直後は家族は無事に養育できるかの不安が強く、そのため出生届は1951年2月18日に初めて提出された。幼少時より学業成績が優秀であり、農漁会奨学金を得て小学校を卒業することが出来た。1969年に国立台南第一高級中学を卒業し、台湾大学商学部へと進学した。
しかし法学に対し関心を有すようになったため商学部を休学し、翌年再度受験に挑戦し、台湾大学法学部に首席の成績で入学した。大学3年の1973年、成績主席で司法試験に合格し「学士律師」となった。
1975年、同じ小・中学校に通っていた呉淑珍と結婚、海商法を専攻していた陳水扁は翌年華夏海商法事務所の弁護士となり、長栄海運の常任顧問弁護士を担当した。
1979年に発生した美麗島事件が陳水扁が政界に進出する契機となった。美麗島事件の被告弁護団に参加した陳水扁は主犯格とされた黄信介の弁護を担当し、党外活動(反国民党運動)に従事するようになった。1981年台北市市議会議員選挙に立候補し、最高得票で当選、台湾民主化運動の先駆者鄭南榕が創刊し、作家である李敖が出資する自由時代系列雑誌社の社長に就任した。当時の雑誌社のスローガンが「100%の言論自由を!」であった。
1985年、議員辞職した陳水扁は台南県長選挙に出馬するが落選した。この選挙運動中に夫人である呉淑珍は国民党の陰謀説もある自動車事故に遭遇し下半身不随となった。この事故で陳水扁の知名度は大幅に向上、多くの民衆の支持を得る契機となった。
1986年、蓬?島雑誌事件で国民党立法委員馮滬祥から名誉毀損で告訴され懲役1年(後に8ヶ月)の判決を受けた。この事件で在野から裁判に対する非難の声が高まったが、陳水扁は判決後控訴しないことを宣言し服役した。同年、呉淑珍が立法委員に当選し、翌年刑期満了で出獄した陳水扁は弁護士活動を再開する傍ら、呉淑珍の政策秘書として活動を再開した。1987年に民主進歩党が結成されると、中央常務委員に就任。1989年に立法委員に当選すると、民進党議員団幹事長となり、1992年には2期目を務めている。