院政期
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院政(いんせい)とは、在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治である。上皇は「」と呼ばれたので、院政という(「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている)。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。
目次

1 概要

1.1 前史

1.2 白河院政

1.3 院政の最盛と転換

1.4 江戸時代の院政


2 世界史上から見た院政

3 現代日本における「院政」

4 院政一覧

4.1 平安時代・鎌倉時代

4.2 室町時代

4.3 江戸時代


5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

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概要


前史

天皇が余力ある内に引退し、若き子(孫)の天皇を後見するという意味では、院政の萌芽は持統天皇元正天皇聖武天皇などから見られる。当時は皇位継承が安定していなかったため(大兄制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。

平安時代に入っても嵯峨天皇宇多天皇や、円融天皇などにも見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退し、代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。

だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条が即位することとなった。後三条は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。

後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、王権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、延久の荘園整理令1069年)などより積極的な政策展開を行った。延久4年(1072年)に後三条天皇は第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。このとき、後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が慈円により主張されて(『愚管抄』)以来、北畠親房(『神皇正統記』)、新井白石(『読史余論』)、黒板勝美三浦周行などにより主張されていたが、和田英松が、災害異変、後三条の病気、実仁親王の立東宮の3点が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったと主張し、平泉澄が病気のみに限定するなど異論が出された。近年では吉村茂樹が、当時の災害異変が突出していないこと、後三条の病気(糖尿病と推定されている)が重篤化したのが退位後であることを理由として、摂関家を外戚に持たない実仁親王に皇位を継承させることによる王権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであって院政の意図はなかったと主張し、通説化している。しかしながら美川圭のように、院政の当初の目的を皇位決定権の掌握と見て、王権の拡大を意図したこと自体を重要視する意見も出ている。

その一方で、近年では宇多天皇が醍醐天皇に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や、円融天皇が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である摂政藤原兼家と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。


白河院政

次の白河の母も摂関家ではない閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤原茂子であったため、白河は、関白を置いたが後三条と同様に親政を行った。白河は応徳3年(1086年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白川院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。嘉承2年(1107年)に堀河が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、独自性が見られた堀河時代より白河は院政を強化することに成功した。白河以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の国王として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。

ただし、白河は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河の本来の意志は、皇位継承の安定化(というより自系統による皇位独占)という意図があった。弟である実仁親王・輔仁親王が有力な皇位継承候補として存在している中、我が子である善仁親王に皇位を譲ることでこれら弟の皇位継承(およびそれを支持する貴族)を断念させる意図があった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki