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附属池田小事件
場所日本 大阪府池田市
標的民間人
日付2001年6月8日
攻撃手段包丁
死亡者8人
負傷者15人
附属池田小事件 (ふぞくいけだしょうじけん) とは、2001年6月8日に大阪府池田市で起こった小学校無差別殺傷事件である。
目次
1 概要
2 学校側の対応不足
3 事件の影響
4 その他
5 脚注
6 類似事件
6.1 スプリー・キラー
6.2 その他学内侵入犯による殺人事件
7 関連項目
8 外部リンク
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大阪教育大学附属池田小学校に侵入した宅間守(当時37歳)が児童8名(1年生1名、2年生7名)を殺害し、児童13名・教諭2名に傷害を負わせた。その後、宅間は殺人罪などで逮捕・起訴された。
公判では「下関通り魔事件の模倣犯になりたかった」と供述していた他、裁判長に対して「命をもって償います」と発言していた一方で「おう、座っちゃあかんか?」「死ぬ事には全くビビってない。死は一番の快楽」「反省の気持ち無い。自分への後悔だけ」「幼稚園ならもっと殺せた」「家が裕福で勉強の出来る子供でも何時殺されるか分からない不条理さを世間に分からせたかった」「ワシをなめとる。30秒あれば一人位は殺せる。かかってこい。」「最後に言わせろや。どうせ死刑なんやから」等と暴言を吐いたり、アクビや貧乏ゆすり等をしていたり、裁判官を睨みつける等の悪態をついていた。その悪態ぶりに対し傍聴者席からは「宅間、早く死ね」「一人で死ね」等の怒号が飛び交っていた。また、遺族に対して「あの世でお前らのガキをしばいたる」等と中傷発言までして、わずか一分足らずで退廷を命じられた。2003年8月28日に大阪地方裁判所にて死刑判決を言い渡された。この判決公判では法廷にテレビカメラを設置し、別室に設けたテレビモニターで傍聴できた。
同年9月10日に弁護団が控訴するも、9月26日に宅間が控訴を取り下げ、死刑判決が確定した。なお、宅間は初公判でのみ反省と謝罪の弁を口にしたことがあるが、大阪地方検察庁の検事が週刊新潮のインタビューに対して「この反省と謝罪の弁は本物だった」との証言をしている。
宅間が主任弁護人に送った文書で刑事訴訟法第475条第2項で規定された「死刑確定後の6か月以内の死刑執行」を訴えていた。また宅間は「死刑は、殺される刑罰や。6か月過ぎて、何時迄も何時迄も嫌がらせをされる刑罰ではない。すぐ殺せば、ダメージがないので、しばらく嫌がらせをしてから執行する。そんな条文があるんか。法律家ならワシの身になれや。法律を遵守するのが法律家の仕事やろが」と主張していた。宅間は死刑が6か月以内に執行されないと、精神的苦痛を理由とする国家賠償請求訴訟及び法務大臣野沢太三(当時)に対する特別公務員暴行陵虐致傷罪での刑事告訴を起こす準備をしていた。
刑事訴訟法第475条では死刑確定後、6か月以内に執行することが定められているが、但し書きに再審請求など一定の条件下では延期することも可能とされており、その但し書きによって死刑執行が延期されることがほとんどであり、また実際には6か月以内に執行された例はほとんどない[1]。また日本では死刑判決確定後に一定期間が経過すれば自動的に死刑が執行される制度ではない[2]。
死刑確定から1年近く後の2004年9月14日、大阪拘置所にて死刑が執行された。野沢太三法務大臣が死刑にゴーサインを出し、結果的に彼の望んだ早期の死刑執行が実現されたこととなった[3]。死刑確定から約1年での死刑執行は、比較的近い例としては1975年に北九州市で暴力団幹部ら4人を殺害し、1977年2月に死刑判決を受け、6月に自ら控訴を取り下げて判決を確定させ、翌1978年11月に福岡拘置所で刑が執行された元暴力団員がいるものの、近年の日本ではきわめて異例のスピード執行であったといえよう。彼が最期に残した言葉は「有難うと僕が言っていたと妻に伝えて下さい」とされる。死刑執行の前、宅間はタバコとジュースをゆっくり味わっていたという。だが、最後迄遺族への謝罪は無いままの死刑執行であった。
宅間は逮捕当初、精神障害者を装った言動を取っていたが、これは彼が複数回の刑事犯罪において、自らの精神科通院歴を楯に不起訴処分(あるいは保護観察処分)という比較的軽い処分を経験したという経歴と無関係ではないと思われる。また、この事件は精神障害者の責任能力の問題が注目される契機の1つとなった(実際に宅間は障害者であり、書類上では「身体・精神」だったが、実際のところは、起訴前と公判中に2度行われたいずれも70日間の情状鑑定の結果によれば「身体・知的」だった。