阿魯

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阿魯(あろ、女真音:アル、生年不詳 - 1150年)は、皇族であり、二代目皇帝太宗の嫡子。は完顔で中国名は宗磐、または宗本とも呼ばれる。子に司空・左丞相・侍中・大理卿の烏帯(女真音はウータイ、中国名は宗言)らがいた。
目次

1 略歴

2 宗室

2.1 兄弟

2.2 子


3 参考文献

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略歴

元来、呉乞買の長子である彼は皇太子に指定されるべき人物であり、呉乞買もその意向を持っていたが女真族古来の合議制でそれは敵わなかった。まだ父・太宗が在命中に、従子(おい、従兄の子)の合刺(ホラ)の太子指定に、族父(おじ、父の従弟)の撻懶(ダラン)と共に猛反対し、賛成者の従兄の遼王斡本(宗幹、太祖の庶長子、海陵煬王の父)と対決したという。また彼は族父の撻懶と南宋秦檜と連絡を取り合って自分の権力を把握することに全力を注いだという。またそれに反対する晋王粘没喝(宗翰)・遼王斡啜(宗弼、または兀朮=ウロジュ、斡本の異母弟)らと対決を繰り返した。

1139年夏4月に斡本らが先手を打って撻懶らを処刑したために、阿魯は急激に力を失い、左遷されたという。ただ、翌々年に政敵の斡本が亡くなったために、彼は返り咲いて1149年右丞相・中書令に任命された。やがて太保・太傅までに昇進し、また三省の総理を兼ねたという。

同年、亡き斡本の次男である平章政事(宰相格)の海陵煬王が従兄の煕宗を殺害して自ら即位すると、かつて亡父の政敵であった族父の阿魯の大粛清を図り、まずは阿魯の職権を剥奪し、無期限の謹慎を命じた。さらに阿魯と縁戚関係にある尚書省令史の蕭玉と同族の左丞相の蕭王・乙卒(秉徳、粘没喝の孫)らを誣告し、これを投獄した。また海陵煬王は阿魯が息子の烏帯との間に亀裂が生じていることを衝いて、烏帯に将来の保障を看るという名目で恫喝して、父の阿魯が秉徳・蕭玉らと謀反を起こしているとの偽の証文を作成させた。このために、ついに阿魯一家は逮捕されて投獄された。

1150年(天徳二年)、海陵煬王は阿魯の謀反を大義名分として、阿魯を初め、乙卒・蕭玉らをまとめて共に処刑し、市場で晒し首にしたという。だが、父殺しの烏帯はその報酬として乙卒の娘を与えられたという。だが自分の妻である女真貴族の唐括弁の娘の唐括氏が海陵煬王と秘かに密通していたことを彼は知らなかったのである。そのために烏帯は職務怠慢の理由で崇義軍節度使に降格され左遷された。やがて彼は妻の裏切りに遭って、1152年(天徳四年)に勅命で殺害されたという。これも太宗の系統の誅滅を狙う海陵煬王の筋書き通りであった。

こうして烏帯ら太宗の子孫70余人が海陵煬王によって、まとめて殺害されてしまい、ついに太宗の血筋は途絶えたという。


宗室


兄弟

蒲魯虎

胡魯

阿魯帯

阿魯補

斛沙虎

阿鄰

鶻懶

胡里甲

神土門

斛孛束

斡烈

鶻沙




烏帯


参考文献

「中国歴代皇帝人物事典」(監修 岡崎由美・王敏 著)河出書房新社 ISBN 4309223427

金史』(巻六十六 列伝第四)   宗賢,本名阿魯。太祖伐遼,從攻寧江州、臨?府。太宗監國,選侍左右,甚見親信。臨?復叛,從宗望復取之。為?庫都提點,再遷歸コ軍節度使。政ェ簡,境?大治。秩滿,士民數百千人相率詣朝廷請留。及改武定軍,百姓扶老■幼送數十里,悲號而去。改永定軍。秉コ廉訪官吏,士民持盆水與鏡,前拜言曰:「使君廉明清直類此,民實ョ之。」秉コ曰:「吾聞郡僚廉能如一,汝等以為如何。」■對曰:「公勤清儉皆法則於使君耳。」因謂宗賢曰:「人謂君善治,當在甲乙,果然賢使君也。」用是超遷兩階。
  天コ初,授世襲謀克,馳驛召之。雄州父老相率張青繩懸明鏡於公署,老幼填門,三日乃得去。封定國公,再除忠順軍節度使,賜以玉帶。捕盜司執數人至府,宗賢問曰:「罪?明白否。」對曰:「獄具矣。」宗賢?其案,謂僚佐曰:「吾察此輩必■。」不數日,賊果得,人服其明。改曷懶路兵馬都總管,?廣寧尹,封廣平郡王。改崇義軍節度使,兼領北京宗室事.正隆例奪王爵,加金紫光祿大夫,改臨海軍.大定初,遣使召之。宗賢率諸宗室見於遼陽,除同簽大宗正事,封景國公,致仕。起為婆速路兵馬都總管,復致仕,卒。 カテゴリ: 1150年没 | 金代の人物 | 完顔氏

更新日時:2008年10月27日(月)02:35
取得日時:2008/11/08 21:34


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担当:Mamenoki