阿部 忠秋(あべ ただあき、慶長7年7月19日(1602年9月4日) - 延宝3年5月3日(1675年6月25日))は、江戸時代前期の下野壬生藩・武蔵忍藩藩主。忠秋系阿部家初代。徳川家光・家綱の二代にわたって老中を務めた。
慶安事件後の処理では浪人の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は明治時代の歴史家竹越与三郎より「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)と高く評価された。
関ヶ原の戦いを扱った歴史書・『関原日記』(全5巻)の編者でもある。
阿部忠吉(あべただよし、阿部正勝の次男)の次男。母は大須賀康高の娘。長兄の夭折により家督を相続。名ははじめ正秋、寛永3年(1626年)に徳川秀忠の諱を一字拝領し、忠秋と名乗った。正室は稲葉道通の娘、継室は戸田康長の娘。男子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、伯父阿部正次の孫で一族の阿部正令(あべまさよし、後に正能と字を改める)を養子として迎えた。
寛永元年(1624年)、父の遺領6,000石を継ぐ。同3年(1626年)加増され、1万石の大名となる。同6年(1629年)、5,000石加増。同10年(1633年)、小姓組番頭から六人衆(後の若年寄)に転じる。同12年(1635年)、壬生藩2万5,000石に転封され老中。同16年(1639年)忍藩5万石。正保4年(1647年)6万石。寛文3年(1663年)8万石。同6年(1666年)老中退任。同11年(1671年)隠居。延宝3年(1676年)に死去した。
元和9年(1623年)、豊後守に叙任。
元和10年(1624年)1月11日、父 阿部忠吉、死去。(2月30日に寛永元年と改元)
寛永10年(1633年)3月23日、六人衆となる。
同年5月5日、老中に任ぜられる。
寛永16年(1639年)1月5日、壬生城から転じて忍藩主となる。
寛文6年(1666年)3月29日、老中職を免ぜられる。
ある寺の僧侶が他国の寺院へ転属する命令を頑として受け入れないため、松平信綱とふたりで説得に出かけた。最初に信綱が理路整然と僧侶に転属の理由を述べ説得したがますます反発して他の方が適任だと言う始末であった。次に忠秋がどうしても行きたくないのかと聞き、お咎めを受けても行きませんと僧侶は答えたので、では咎めとして転属を申し付けると忠秋が言ったとたん、僧侶は知恵伊豆様(信綱)より豊後様(忠秋)の方が上手ですね(知恵がある)と笑いながら申し付けを受け入れたと言う。
徳川家光が櫓に登って小姓たちに「ここから飛び降りた者には褒美を取らせる」と言った。小姓たちがそれに困り何も出来ずに居ると、家光は不機嫌になり「阿部豊後(忠秋)ならばどうするか尋ねよ」と叱った。報告を受けた忠秋は小姓たちに「再び上様がそのように申されたときは、傘をさせば安心して飛んでご覧に入れますと返答せよ。戯れのお言葉には当意即妙に答えるのがお側につくものの心得」と諭した。後日、家光から同じように櫓の上から飛び降りろと言われた者が、忠秋から教わったとおりに答えると、家光は上機嫌になったという。(『夜譚随?』より)
正保二年十月、家光が神田橋外の鎌倉河岸へ鴨狩りに出かけた。家光は鴨を飛び立たせるために小石を投げるように命じたが、手ごろな石が無かった。そのため、魚屋から蛤を持ち帰らせて小石の代わりにした。翌日、この顛末を聞いた松平信綱は「上様のお役に立った魚屋は幸せ者であり、蛤の代金を取らせる事はあるまい」と言った。しかし同席していた忠秋は、「上様のお役に立ったのは名誉に違いないが、商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。上様のなさったことで町人に損失を与えては御政道の名折れである」と反論し、代金を支払わせたという。(『寛明日記』より)
先代:
日根野吉明阿部氏(壬生藩)藩主
1635年 - 1639年次代:
三浦正次
先代:
松平信綱阿部氏(忍藩初代)藩主
1639年 - 1671年次代:
阿部正能
カテゴリ: 江戸の大名 | 譜代大名 | 阿部氏 | 1602年生 | 1675年没
更新日時:2008年11月2日(日)09:00
取得日時:2008/11/16 04:36