古代の多氏の後裔と伝え、阿蘇国造の流れを汲むというが、もとより伝承の域を出ない(あるいは出雲の大神姓とも)。延喜年間の阿蘇友成(宇治友成)以降は阿蘇神社の大宮司を世襲するようになったという。やがて祭事のみならず統治においても力を持つようになり、大名として発展した。 南北朝時代から戦国時代まで内部紛争を繰り返した。本姓は宇治で、惟泰の代に阿蘇姓を名乗るようになったという。
目次
1 歴史
1.1 鎌倉時代
1.2 南北朝時代
1.3 戦国時代以降
2 歴代当主
3 系図
4 阿蘇氏側の国人
5 阿蘇氏末裔
6 庶家
7 関連項目
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統治能力を持ちあわせた阿蘇神社大宮司としての阿蘇氏は、記録上12世紀前半の阿蘇惟宣(宇治惟宣)にまで遡ることができる。
鎌倉時代後期の1333年(元弘3)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、阿蘇惟時は護良親王の令旨を受け、足利尊氏らと京都の六波羅探題攻めに参加する。
鎌倉幕府滅亡後に開始された建武の新政から尊氏が離反する。阿蘇惟時は後醍醐天皇側の武将として箱根・竹ノ下の戦いに参戦したが敗れた。その後、後醍醐天皇の反撃によって京都を追われた尊氏らは九州に落ち、少弐氏に迎えられる。阿蘇惟直は菊池氏とともに足利・少弐氏の軍と多々良浜の戦いにおいて戦うが敗れ、自刃した。
尊氏は再び京都を占領し、後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝時代に突入した。惟直の死を受けて阿蘇惟時が当主に復帰するが、北朝方は惟時の庶子・坂梨孫熊丸を当主に擁立し、阿蘇氏は分裂した。孫熊丸は阿蘇惟澄(惟時の娘婿)によって討ち取られたが、その後も惟時-阿蘇惟澄(惟時の娘婿)-阿蘇惟村のラインが北朝方、阿蘇惟武(惟村の弟)のラインが南朝方について争うなど分裂は続いた。後に惟武の曾孫・阿蘇惟歳が惟村の孫・阿蘇惟忠の養子となることでひとまず和解するが、やがて阿蘇氏は惟歳・惟家 父子と惟忠・惟憲父子の間で当主の座を巡る争いが起こる。
戦国時代に入った1484年、幕の平合戦で阿蘇惟憲が勝利を収め、ようやく一族を統一した。しかし、惟憲の子の代に阿蘇氏はまたもや分裂する。
1507年、惟憲の子・阿蘇惟長は肥後守護であった菊池氏を乗っ取り(菊池武経と名乗る)、弟の阿蘇惟豊に大宮司職の座を譲る。しかし1513年、島津氏と通じて惟豊を攻撃し、日向に追放する。惟長は嫡男の阿蘇惟前を大宮司とし院政を敷く。1517年、惟豊は日向の国人甲斐親宣らの助力を得て惟長父子に反撃し、本拠地矢部を奪還する。
惟豊は甲斐親宣・親直(宗運)父子の補佐を得て阿蘇氏を繁栄させた。 1523年には惟長父子に堅志田城を奪われ甲佐・砥用・中山も支配下におかれるが1543年に堅志田城を奪還し、30年に及ぶ内部分裂に事実上終止符を打つ。(惟前・惟賢父子は相良氏を頼って逃走、1590年に惟賢が阿蘇惟光への忠誠を誓ったことで抗争は正式に終結。) 1549年、惟豊は御所修理料一万疋を献納し、後奈良天皇から従二位に叙せられた。
惟豊は大友氏、相良氏と盟を結ぶことで領国の安定を図った。しかし阿蘇惟将の代となった1578年、大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗を喫すると肥後の国人衆は島津氏や新興勢力の龍造寺氏と誼を通じ、阿蘇氏の領域を脅かすようになる。阿蘇惟将は宿老・甲斐宗運の卓抜した軍略によってどうにか領国を維持するが、1581年にはついに相良氏が島津氏に降伏し、南から島津氏の圧力を直接受けることになってしまう。 1585年(1583年ともいわれる)には甲斐宗運やその配下の田代宗傳が死去。さらに阿蘇惟将、その跡を継いだ阿蘇惟種が1583、1584年に立て続けに死去するなど有力者の死が相次いだことで阿蘇氏は急速に弱体化する。
1585年、島津軍が領内に侵入するや阿蘇勢は総崩れとなり、わずか2歳の当主・阿蘇惟光(惟種の子)は降伏したのち母親に連れられて逃走。ここに戦国大名としての阿蘇氏は滅亡した。のちに阿蘇惟光は、九州を制圧した豊臣秀吉に保護を求めてわずかながらの領地を与えられ、阿蘇神社宮司としての地位も認められたが、大名としての特権は全て剥奪された。