アヘン(阿片、鴉片)は麻薬の一種で、ケシ(芥子)の実から生産される。
アヘンの名は、英語名 opium の中国語の音訳である阿片(a pian アーピェン)を日本語読みしたものである。明代の中国、江戸時代の日本では阿芙蓉(あふよう)と書いた。
目次
1 産地
2 性質
3 アヘン史
4 日本におけるアヘン史
5 統制の状況
6 「宗教はアヘンである」
7 参考文献
8 関連用語
9 外部リンク
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以前は、東南アジアの「黄金の三角地帯」で多く栽培されていたが、抑制対策が功を奏してその地帯での栽培は大きく減少した。2007年の国連の報告書[1]によれば、アヘンの82%はアフガニスタンで栽培されている。
ケシの開花後、10?20日経った未熟果(カプセル)に切り込みを入れるなどすると乳液状の物質が穫れ、これを乾燥させると黒い粘土状の固形物になる。これがアヘンである。アヘンは約10%ほどのモルヒネを含む。
上記10?20日経ったというのは、果面が白色粉を帯び、下方のくびれ目が薄黒く着色し、果腹を指間にはさみ押すと多少抵抗を感じる頃である。
午前10時ころから午後4時ころの間に、剃刀ようのものまたは三条切傷器で、子房の立隆線にそって下方から頭部にむかって、1回に3、4条ずつ、乳液を十分滲出し得る程度に浅く、切り傷をつけ、流出する乳液が十数分で凝固するのを待ち、竹べらでかき取り、おおぶりの湯呑茶碗様の乳液容器に集める。掻き集めた乳液は攪拌混合し、菜種油を塗布した筍皮から剥離し、これをガラス板に塗り、もろく折れる程度に日乾しする。切り傷は1日に3本、翌々日(つまり隔日に)同じ果実に新たに3本付け、1果当たり3?4回採取する(隆起部を切傷しつくしたのちはその中間を切傷することもある)。10a当たり乾燥アヘン3kg、種子35lである。日本以外の国では、切り傷を水平方向に付ける場合が多い。
以上のほかに、宵切朝掻といって、午後3時ころから夕刻にわたって切傷し、翌日早朝朝露のかわかないうちに掻き取る方法があり、これは第3回以後の採集におこなわれることが多い。
つくったアヘンは薬研で粉末にし、ブリキ缶に入れ政府に納入した。
精製の必要がなく、顕著な薬効があるために、極めて古くからその存在が知られている。今日では他の麻薬に比べ麻薬性は相対的には少ないとされるが、過度の服用は幻覚症状などを引き起こし、中毒に到る恐れもある。モルヒネなどの多くのアルカロイド類(アヘンアルカロイド)を含んでおり、製薬原料として広く利用されている。アヘンはモルヒネのジアセチル体であるヘロインの原料となるが、ヘロインは麻薬性に偏った成分を持つため、アヘンよりもさらに危険な麻薬として厳しく取り締まられる。
アヘンは極めて古くからその存在が知られている。紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシが栽培されていたと考えられており、紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版にはシュメール人の乳液の採取について記述されている。紀元前2000年頃には、ヨーロッパや、中東、中央アフリカにケシ栽培は伝わった。紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造がされていた事がわかるパピルスの文献が見つかっている。文献によれば、アヘンは当時のエジプトにおいて鎮痛剤などの薬剤として用いられていた。メトロポリタン美術館のアッシリアン・リリーフ・ギャラリーにある、アッシュールナツィルパル2世の宮殿にあった紀元前879年に作られた浮き彫りの有翼神獣は、美術館はザクロと述べているもののケシの未熟果の束を運んでいる。
紀元前300年頃のギリシャの哲学者テオフラストスの著書に、アヘンについての記述を見ることができる。ギリシャ神話では、アヘンの発見者は女神デメテルとされている。ローマ帝国ネロ帝の侍医ディオスコリデスは、アヘンの採取法及び薬効を著書の中で詳しく述べている。この時代には、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていた。一部で遊興的な使用も行われたが、多くは薬用であった。英語名 opium は、この時代のラテン語名 opium を引き継いだものである。古代ヨーロッパにおけるアヘンの使用は、西ローマ帝国の滅亡により、一時廃ることとなった。
5世紀前後、イスラム圏の交易網が発達し、インドや中国、アフリカの中部などの各地にアヘンはもたらされた。アラブ商人は医薬品としてのアヘンを商品とみなしていた。東アジアにも伝来した。シルクロードを通じて、アラブ商人が持ち込んだと考えられている。500年頃に薬学者であった陶弘景により編纂された『唐本草』には医薬品としてのアヘンの記述がある。それ以前に、シルクロードを通じて持ち込まれた医薬品、底野迦(てりあか)にはアヘンが含まれていたとの指摘や、三国時代の医師である華佗の用いた麻酔薬、麻沸散にアヘンが含まれていたとの指摘がある。当時の中国において、アヘンはレクリエーション使用が行われることはなく、清朝に至るまではアヘン禍に陥ることは無かった。
11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来した。再び、医薬品として用いられた。15世紀頃からは麻酔薬としても用いられた。20世紀初頭までは民間療法の薬剤として用いられた。ヨーロッパにおいて、「アヘンの危険性の認知」や「アヘンの習慣を持つ者が多い中国人の各地への移住とそれによる中国人コミュニティーとの接触」に伴ない19世紀には反アヘン運動が高まった。
大航海時代を経ての西欧諸国による海上貿易において、アヘンは重要な商品となった。中国では、西欧諸国、特にイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘン禍に陥る。イギリスは交易において三角貿易の構造を構築し、アヘンを用いて資産を獲得した。このアヘン貿易は、規模や対象、時代こそ違うものの諸国においても同様の交易が行われ、オランダ、日本、トルコ、ペルシアなどはアヘン貿易で資金を獲得した経験を有する。英中間において、アヘンはアヘン戦争の引き金となった。