時1840年6月28日 - 1842年8月
場所清(現在の中国)虎門他
結果 イギリスの勝利
衝突した勢力
清 イギリス
指揮官
道光帝 チャールズ・エリオット
ヘンリー・ポッティンジャー
阿片戦争(あへんせんそう、英:First Opium War, First Anglo-Chinese War)は清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、アヘンの密輸が原因となって発生した戦争である。
目次
1 戦争に至る状況
1.1 アヘン貿易
1.2 アヘン取締
2 戦争勃発
3 終戦後の推移
4 戦争の余波
5 参考文献
6 小説
7 映画
8 関連項目
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当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。逆に、イギリスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在せず(清では、イギリスの主要輸出品だった綿織物への需要がほとんど無かった)、イギリスの大幅な輸入超過(1810年−1820年には2600万ドルの対清貿易赤字)であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
清では、既に1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していた。禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、アヘンの輸入代金を銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により、貿易収支が逆転し(1828年−1836年に3600万ドルの対英貿易赤字)、清国内の銀保有量が激減し、銀の高騰を招いた。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動し、銀貨1両に対して銅銭1000文程度であったものが、銀の高騰により銀貨1両に対して銅銭2000文という比率になった。この頃の清では、税金を銀貨で納付するよう規定していたことから、日常生活で銅銭を使用し、税金の納付において銅銭を銀貨に交換していた農民は納める税金が2倍になった計算である。さらに銀が不足し値が上がる事は物価が下がる事と同義であり、清の基本的な税制である地丁銀制が事実上崩壊し、経済にも深刻な影響を及ぼした。
この事態に至って、清では官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。概要はアヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。というものである。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝は林則徐を欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、これをまとめて焼却処分した(実際は、海水(食塩水)と消石灰による化学処理によって、アヘンを無害な物質に変えて処分したのであるが、その時の化学反応で発生した煙によって、焼却処分したと庶民には伝承されてきた)。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
イギリスの監察官のチャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すれば貿易を許す」と返事した。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。それを横目で見ていたトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンらを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。