阿倍氏(あべし、後に安倍氏)は古代日本の豪族に由来する貴族の氏の一つ。孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出する。平安時代以後は「安倍氏」と称して安倍晴明以後は陰陽師の家系として知られるようになった。
目次
1 阿倍氏(古代?奈良時代)
2 安倍氏(平安?南北朝時代)
3 土御門家(室町?明治時代)
4 主な人物
5 関連項目
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景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事であるとされ、また継体天皇の妃に阿倍波延比売がいたいわれているが、歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化天皇の大夫であった阿倍(臣)大麻呂(火麻呂とする説もある)が初見である。大麻呂は大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目に次ぐ地位の重臣であったと言われている。推古天皇の時代には蘇我馬子の側近として阿倍(臣)麻呂が登場している。
大化の改新の新政権で左大臣となったのは、阿倍倉梯麻呂(内麻呂ともいう)であった。阿倍氏には『日本書紀』などでも外国への使者などに派遣される人物が多く、倉梯麻呂は家柄のみならずそれなりの見識を買われて新政権に参加した可能性が高い。また、倉梯麻呂の娘・小足媛は孝徳天皇の妃となって有間皇子を生んだとされており、またもう一人の娘・橘媛は天智天皇の妃になるなど、当時の阿倍氏の勢力が窺える。
その後、阿倍氏は一族が分立して「布施臣」・「引田臣」(ともに後に朝臣の姓を受ける)などに分裂していった。だが、引田臣を率いる阿倍比羅夫が斉明天皇に仕えて将軍として活躍し、布施臣を率いる倉梯麻呂の息子・布施御主人(みうし、後の「阿倍御主人」)(635-703)は大宝律令下で最初の右大臣に任命された。その後、布施御主人は「阿倍朝臣」の姓をあたえられ、続いて引田朝臣でも比羅夫の息子達に対して同様の措置が取られた。遣唐使で留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂は比羅夫の孫、船守の息子であると言われている。以後は主として御主人と比羅夫の末裔が「阿倍氏」と称することになった。だが、中納言で死去した御主人の子・阿倍広庭(659-732)が死ぬと、藤原氏などの新興氏族に押されて低迷する。だが、藤原武智麻呂夫人(豊成・仲麻呂兄弟の生母)や藤原良継夫人などの有力者の夫人を出している。
「阿倍氏」がいつ頃から「安倍氏」と改めたかには諸説あるが、平安時代初期の延暦?弘仁年間説が有力であると言われている。この時期には安倍兄雄(?-808、御主人の玄孫、平城天皇時代の参議)、安倍安仁(793-859、引田臣系傍流、仁明天皇時代の大納言・右近衛大将)という二人の有力高官を出している。だが、その後の活躍はやはり兄雄の6代目の子孫とされている安倍晴明の活躍する平安中期にまで降ってしまう。晴明以後、安倍氏が賀茂氏とともに天文と陰陽道を司ったというのは著名な話であるが、官位的には晴明も息子吉平(954-1027)も最終的には従四位上であって、先祖である兄雄と比べれば格下であるのは明白である。その後、代々天文博士・陰陽頭に任じられた。
世の中が不安定であればあるほど、朝廷から陰陽師への期待が高まるものなのか、安倍氏から名高い陰陽師が登場するのは「乱世」というべき時代である。源平の戦い当時の陰陽頭で吉平の玄孫にあたる安倍泰親(1110-83)は正四位上、息子の季弘(1136-99)は正四位下にまで昇進している。その後、安倍氏は内部分裂もあってやや衰退したものの、南北朝時代に登場した安倍有世(晴明から14代目、泰親から8代目)はついに公卿である従二位にまで達した。安倍氏の一族としては500年以上絶えてなかった事であり、その職掌柄から時には恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことは当時としては衝撃的な事件であった。
泰親には九条兼実、有世には足利義満という政治的な後援者がいたからこそここまでの昇進に至ったという意見もある。だが、泰親は平氏の衰亡や以仁王の乱を予言し、有世は明徳の乱・応永の乱を予言したとも言われており、占星術や陰陽道においても特筆した才能があったとする記録が残されている。兼実や義満も彼らのそうした高い能力を評価したからこそ、その昇進を援けたのである。
一般的には(専門書の中にも)「土御門家」の祖を安倍有世に求めて有世を「土御門有世」と呼称される事が多い。だが、有世が“土御門”を名乗ったとする記録は当の土御門家にも存在せず、確実に「土御門」を名乗ったと言えるのは、その曾孫にあたる安倍(土御門)有宣(室町時代中期-後期)以後であると考えられている(そもそもこれより先に村上源氏系の「土御門家」が存在しており、安倍氏系の「土御門家」と重複していたとは考えにくいため、村上源氏系が断絶した事が確実となる室町時代前期以前に安倍氏系の「土御門家」が存在したとは考えにくいのである)