関宿藩
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関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家(旧東葛飾郡関宿町久世曲輪))に存在した。藩庁は関宿城
利根川江戸川の分岐点にあり江戸幕府にとっては最重要拠点であり、利根川水運の要衝であったことから江戸期においては信頼の厚い譜代諸侯がその藩主に任じられた。
目次

1 藩史

2 藩政

3 歴代藩主

3.1 松平(久松)(まつだいら(ひさまつ))家

3.2 松平(能見)(まつだいら(のみ))家

3.3 小笠原(おがさわら)家

3.4 北条(ほうじょう)家

3.5 牧野(まきの)家

3.6 板倉(いたくら)家

3.7 久世(くぜ)家

3.8 牧野(まきの)家

3.9 久世(くぜ)家


4 関連項目

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藩史

関宿は徳川氏関東に移された頃から重要拠点のひとつとして見なされていた。そのため、徳川氏が関東に入ったとき、関宿には徳川家康の異父弟・松平康元が2万石で入ったことにより、関宿藩が立藩した。康元は天正19年(1591年)に2万石を加増され、4万石となった。康元が死去すると、嫡男の松平忠良が後を継いだ。忠良は大坂の陣で戦功を挙げたことから、元和2年(1616年)9月、1万石加増の上で美濃国大垣藩に加増移封された。翌年12月、越後国三条藩から松平重勝が2万6000石で入るが、元和5年(1619年)に遠州横須賀藩に移封となった。同年10月、下総国古河藩より小笠原政信が2万2700石で入る。政信は寛永17年(1640年)7月に若死にし、養嗣子の小笠原貞信が後を継いだが、わずか9歳の幼少では重要な関宿にはふさわしくないとして、同年9月に美濃国高須藩に移封となった。

その後、遠江久野藩より北条氏重が2万石で入るが、正保元年(1644年)3月に駿河国田中藩に移封。代わって武蔵国石戸藩から牧野信成が1万7000石で入る。信成は正保4年(1647年)に隠居し、後を子の牧野親成が後を継いだ。親成は承応3年(1654年)に京都所司代となったために河内国内に1万石を加増され、明暦2年(1656年)に摂津・河内国内に加増移封となった。代わって、それまで京都所司代だった板倉重宗が山城・近江国内から関宿に入った。重宗は同年末に関宿にて死去し、後を子の板倉重郷が継ぐ。重郷は寺社奉行となったときに弟の板倉重形に5000石を分与して、4万5000石を領することとなる。重郷死後は子の板倉重常が継ぐ。重常は寛文9年(1669年)2月、5000石加増の上で伊勢亀山藩に移封された。

板倉氏が去った後、久世広之が5万石で入る。広之は徳川家綱のもとで側衆、若年寄老中を歴任した人物である。広之の死後は子の久世重之が継ぎ、天和3年(1683年)8月に備中国庭瀬藩に移された。同年9月、牧野成貞が常陸国内より2万石加増の5万3000石で入る。成貞は徳川綱吉のもとで側用人として重用されたことから、元禄元年(1688年)、和泉国常陸国内に2万石を加増されて7万3000石の大名となった。元禄8年(1695年)に隠居し、家督は養嗣子の牧野成春が継いだ。成春は宝永2年(1705年)に7000石を加増の上で三河吉田藩に移封された。

代わって久世重之が関宿藩主に再任となる。これによりようやく藩主家が定着し、以後、久世氏の支配により明治維新を迎えることとなる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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