明成皇后 閔氏
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各種表記
ハングル:????
漢字:明成皇后
平仮名:
(日本語読み仮名)めいせいこうごう
片仮名:
(現地語読み仮名)ミョンソンファンフ
ラテン文字転写:Empress Myeongseong
Queen Min
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閔妃(ミンビ、びんぴ、1851年10月19日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃[1]。尊号は孝慈元聖正化合天[2]、諡号は明成太皇后[3]なので、孝慈元聖正化合天明成太皇后となる。韓国では明成皇后、中国では 朝鮮王后(閔氏)または明成皇后と呼ぶ。
目次
1 人物
2 略伝と関連年表
3 関連の話題
4 幾つかの誤りと誤解
5 参考文献
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
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閔致禄の娘。幼名は伝わっておらず不明。15歳の時(1866年)に王の実父である興宣大院君(以下、大院君)の夫人閔氏の推挙で王宮に入った。明成皇后が王妃に選ばれた理由は、それ以前の60年間に及ぶ外戚安東金氏の勢道政治による壟断からの脱却をはかるため、外戚としての影響力の少ない人物を選んだと言われる。しかしながら、その方策は裏目に出た。
明成皇后が卓越した政治的手腕を持っていたのではなく、高宗が政治と妻に全く関心を持たず、関心が深いのは専ら多数の宮女や妓生達を相手にした漁色と酒といった放蕩三昧のみという愚昧な人物だった[4]。明成皇后は王室に嫁いでから数年もしないうちに王朝の政治に深く介入するようになった。そして、大院君と王太子冊立に絡む対立が深まると1873年大院君追放の指揮を裏で執り行い、高宗の父で摂政を務めていた大院君とその腹心の部下たちを王宮から追い出し、一族を高官に取り立て政治の実権を握った。大院君はその後京畿道楊州に隠居した。しかしながら、この追放謀議に対して明成皇后の存在を国家存続を脅かすものとして大いに憂慮した大院君は政局復帰、明成皇后追放の為の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にも成った。
大院君が失脚すると、明成皇后は彼女の一族を積極的に重職に登用し、閔氏による勢道政治を行った。当初明成皇后は開国政策をとり、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を実施した。日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化も始まったが、従来の軍隊(旧式軍隊)は放置され、賃金未払いなどが発生し、新式軍隊に対する不満が重なっていた。それと開化政策に不満を持つ大院君等の勢力が合わさり朝鮮の旧式軍隊が1882年明成皇后暗殺をもくろんだ(壬午軍乱)。 その際、多くの明成皇后派要人や日本人が殺され、日本大使館が焼き討ちにされたが、事件を察知した明成皇后は侍女を自らの身替りとしていち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱した。この軍乱を指揮したとして、大院君は清に連行され天津に幽閉された。高宗の嘆願、朝貢も効果なく、幽閉は3年間続き、帰国したのは駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共にであった。
1884年の開化派の金玉均(1894年、明成皇后の刺客、洪鐘宇により上海で暗殺)らの甲申政変により一時期政権を奪われるが、これも清軍の力を使って政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した。
1885年になると、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめる。1894年に東学党の乱(甲午農民戦争)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場になった。日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、明成皇后の勢力は力を失っていく。そのため明成皇后は、親露政策をさらに推し進めていき、7月6日にロシア軍の力を借りて権力の奪回に成功する。この一件後の反明成皇后派の不穏な動きを察し、反対派の武装解除等を行った。[5]
これらの動きは明成皇后に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年10月8日、大院君を中心とした開化派武装組織によって景福宮にて暗殺され、その遺体は武装組織により焼却された(乙未事変)[6]。
朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った公使・三浦梧楼も暗殺事件への嫌疑がかれられたため、日本は国際的に非難され三浦を含む容疑者を召還し裁判にかけたが、首謀と殺害に関して[7]は証拠不十分し免訴となり、釈放した。
死後、皇后としての称号を剥奪され、平民に降格された[8]ため、当初は東九陵の崇陵ではなく崇陵前に埋葬されたが、後に清凉里の洪陵に移され、さらには高宗没後は南楊州市の金谷銅に位置する洪陵に高宗と彼女の合葬陵として現在の洪陵[9]に移された。