開陽丸
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開陽丸
艦種木造シップ型フリゲート

開陽丸(1867年頃)
艦歴
発注文久2年(1862年)
オランダ 
起工文久3年(1863年)8月
ヒップス・エン・ゾーネン造船所 
進水慶応元年(1865年)9月14日
就役慶応2年(1866年)7月17日
主な所属江戸幕府
最後の軍役箱館戦争
江差沖にて陸上部隊の支援
除籍
その後明治2年(1868年)11月15日
江差沖にて座礁、沈没
性能諸元
排水量2,590t
全長72.80m
全幅13.04m
吃水5.70m(前部)
6.40m(後部)
機関シップ型3本マスト帆走
400馬力蒸気エンジン(補助)
最大速度12ノット(汽走時)
航続距離
乗員350?500名
定員は303名(士官7名、見習士官31名、水夫265名)
装甲
兵装備砲26門、のちに35門
16cmクルップ砲18門
16cmライク滑腔砲6門
9inダールグレン砲9門(追加) ほか
備考
復元された開陽丸(江差町)

開陽丸(かいようまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していた軍艦の一つ。オランダ製。オランダでの愛称は"Voor lihter"(夜明け前)。木造シップ型帆船。排水量2,590t、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m、マスト3本、補助蒸気機関400馬力、備砲は当時最新鋭のクルップ砲を含む26門。幕府所有の軍艦の中では最強の軍艦。

平成2年(1990年)4月、北海道檜山郡江差町に開陽丸が復元され、史料館となっている。
目次

1 歴史

1.1 発注

1.2 建造

1.3 処女航海

1.4 戊辰戦争

1.5 沈没


2 関連リンク

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歴史


発注

江戸幕府は、外国船に劣らない新鋭艦の必要性を感じてアメリカへ軍艦発注を行おうとしていたが、南北戦争勃発のため、急遽発注先をオランダに変更。文久2年(1862年)、オランダに新鋭艦の発注を依頼すると同時に、軍艦引き受けをかねて内田恒次郎を取締役とした日本人留学生ら15名を派遣した。メンバーには内田の他に、榎本武揚澤太郎左衛門赤松大三郎田口俊平津田真一郎西周助などがいた。留学生達は、同年9月11日長崎を出港、文久3年(1863年)4月18日に無事オランダのロッテルダム港に到着する。

幕府が発注に際してオランダ側に要望したのは以下の4点であった。
木造船。

350馬力のスクリュー推進艦。

武装、航海用具など一切をオランダ海軍新鋭艦が装備するものと同等とし、最良の品質と最高の性能を有する。

艦載砲は26門を装備し、その口径は造船技師長の判断に任せる。


建造

受注したオランダ貿易会社は、入札によりヒップス造船所に日本向け軍艦の造船を依頼し、造船契約が成立。この艦の建造アドバイザーにはオランダ海軍のホイヘンス大佐があたることになった。ホイヘンス大佐は、耐久性があり、造艦が容易で安価な「鋼鉄艦」にするように提案したが、幕府は木造船は既定の事として受け付けなかった。一方で幕府は予算の都合から大砲を当時最新鋭とされた施条砲から通常砲に変更するように通達している。これについては留学中にデンマーク戦争を観戦し、施条砲の威力を目の当たりにした榎本武揚らの尽力によりドイツのクルップ社製施条砲18門を導入することで折り合いをつけている。

文久3年(1863年)8月にドルドレヒトで起工式、竜骨の据え付けが行われた。元治元年(1864年)、幕府より軍艦命名の指示が出され、同年10月20日、内田恒次郎は建造中の軍艦に「開陽丸」と名付けた。オランダ人には「陽が開く」、つまり「夜明け前」という意味で「フォールリヒター(Voor lihter)」と説明した。慶応元年(1865年)9月14日、元長崎海軍伝習所教師で当時はオランダ海軍大臣となっていたカッテンディーケが臨席して開陽丸の進水式が行われ、その後、艤装のためフリッシンゲンの海軍工廠へ移動した。慶応2年(1866年)6月6日には艤装も終了し、同年7月17日についに完成、造船所より留学生らに引き渡された。


処女航海

同年10月25日、オランダ海軍大尉ディノーを指揮官として109名のオランダ人と榎本武揚ら9名の留学生を乗せた開陽丸はオランダのフリッシンゲン港を出港。11月12日に暴風雨に遭うが無事。11月26日(グレゴリオ暦1867年1月1日)には船上にて元旦パーティーを催した。赤道を越えて12月16日、リオデジャネイロ港に寄港。11日間滞在の後、12月27日には同港を出港。慶応3年(1867年)となり1月11日、またも暴風雨に遭うが無事。2月17日からは無風が続いたため初めて蒸気機関を使用して航行し、2月25日インドネシアアンボイナ港に到着した。3月6日にはいよいよ日本へ向けてアンボイナ港を出港、3月26日、榎本ら留学生は開陽丸と共に横浜に無事帰還を果たした。


戊辰戦争

横浜到着後、開陽丸は留学生らより江戸幕府に献上され、榎本武揚が開陽丸艦長(軍艦乗組頭取)に任命された。榎本武揚の改革によって開陽丸乗組員はじめ海軍士官の洋式化が行われた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki