鈴木尚(鈴木 尚典)
横浜ベイスターズ No.51
基本情報
国籍 日本
出身地静岡県浜松市南区
生年月日1972年4月10日(36歳)
身長
体重186cm
88kg
選手情報
投球・打席右投左打
守備位置左翼手
プロ入り1990年 ドラフト4位
初出場1991年10月14日
年俸5,500万円(2008年)
経歴
横浜高等学校
横浜大洋ホエールズ
横浜ベイスターズ(1991 - )
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手
鈴木 尚典(すずき たかのり、1972年4月10日 - )は、横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手(外野手)。2007年から登録名を「鈴木尚」(姓と名は区切らずひとつながり)としている。
ニックネームは「ハマの安打製造機」。チームメイトからは「スーさん」と呼ばれている。
目次
1 来歴・人物
2 エピソード
3 年度別打撃成績
4 タイトル・表彰・記録
5 背番号
6 関連項目
7 外部リンク
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横浜高等学校入学直後から4番を打ち、2年生の夏(1989年)に甲子園に出場。高校通算39本塁打を記録するなど当時は長打力が注目されていた。1990年にドラフト4位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)に入団。
『ドカベン』に憧れキャッチャーをしていたが、肩を故障し外野手に転向。打撃センスは抜群だが、守備に難があり、故障のためか肩も弱い。鈴木の守備範囲にボールが飛んだだけでピッチャーは目を覆ったという。それでも抜群の打撃を見せていたので、横浜高校の渡辺元部長=名前・肩書は当時=は頑なに鈴木を使い続けた。プロ入り後もその打撃でファンを魅了し、特に外角の直球を左中間に流し打ちする技術はセ・リーグの左打者で一番ではないかといわれた時期もあった。また、全盛期は内角球をさばく技術も高く評価されていた。その一方で守備には課題を残し、飛球を見失う、ゴロを後逸する、弱肩を突かれて進塁を許す、といった場面もよく見られた。
プロ入り直後の1991年、1992年は二軍でも安打が一桁で本塁打なしという成績だったが、竹之内雅史の手腕により1993年から徐々に打撃が開花。1993年にはシーズンを通して二軍の4番を打ち、打率.280、9本塁打、47打点という結果を残した。
1994年からは一軍に定着し、この年は主に代打で出場した。8月9日の対巨人戦にて槙原寛己からプロ入り初本塁打となる代打満塁本塁打を放つ。翌1995年はスタメン出場が増え、クリーンナップを任されることもあった。7月16日の巨人戦で木田優夫から九回二死の場面で逆転サヨナラスリーランを放つなど、この時期から「勝敗を決定付ける局面で強い」打者としての評価を得る。1996年は規定打席に到達し、打率.299を記録するなどさらに成績を向上させた。
1997年には3番に定着し、初の首位打者を獲得。憧れの選手だった吉村禎章(巨人)にあやかり、1998年からは背番号を7に変更した(背番号「51」で名字が「すずき」と、イチローと共通する話題性もあり、験のよい番号という声もあったが、「セのイチロー」「ハマのイチロー」と呼ばれることを嫌ったという説がある。しかし、本人はイチローは関係ないと語っている)。同年は最多安打こそ1本差で同僚の石井琢朗に譲るが、前田智徳(広島)とのタイトル争いに競り勝ち、2年連続となる首位打者を獲得。マシンガン打線の中心選手として活躍し、チーム38年ぶりの優勝に大きく貢献した。日本シリーズでは初戦で先制タイムリー、2戦目に4打数4安打2盗塁を記録するなど、5戦目まで全てでマルチヒットを放つ。最終的には打率.480(通算25打数12安打)、シリーズ新の9得点をマークする活躍で、MVPを獲得した。
翌1999年もリーグ3位の打率を残し、年間満塁本塁打3本を記録。この年は球団新記録となる110得点を残すが、緒方孝市(広島)の111得点に及ばず、リーグ最多得点はならなかった。しかしながら安打数、打点数などでは自己記録をマークしている。
2000年は97年以来の20本塁打をマークするが、春先の不調が響き4年連続の3割はならなかった。ただし、勝負強さは健在で、この年限りで廃止された最多勝利打点の最後の受賞者となった。また、この年限りで共にマシンガン打線の中軸を担ってきたロバート・ローズが退団した。
2001年に森祇晶が監督に就任。ローズが退団したことにより4番に指名される。しかし本塁打を意識しすぎるあまり、本来のフォームからずれていき、打率こそ3割を超えたものの本塁打は6本に留まるなど、打撃に微妙な狂いを見せ始める(6月24日の巨人戦では、左打者としてはプロ野球史上初の3併殺打を記録している)。翌2002年は打率3割を切り、さらに成績を落とした。