鈴木 善幸
(すずき ぜんこう)
第70 代
日本国 内閣総理大臣
在任期間1980年7月17日
- 1982年11月27日
生年月日1911年1月11日
出生地岩手県下閉伊郡山田町
出身校農林省水産講習所
(現東京海洋大学)
学位・資格・称号正二位大勲位
前職衆議院議員
自由民主党総務会長
自由民主党総裁
世襲の有無世襲ではない
選挙区
当選回数衆16回
党派自由民主党
没年月日2004年7月19日(満93歳没)
鈴木 善幸(すずき ぜんこう、1911年(明治44年)1月11日 - 2004年(平成16年)7月19日)は、日本の政治家、第70代内閣総理大臣、第10代自由民主党総裁。 正二位 大勲位菊花大綬章。
目次
1 前半生
2 大平の急死
3 鈴木政権
4 その後
5 略歴
6 栄典
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
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岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。水産学校を経て水産講習所に入学、学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともある。大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務したのち、1947年(昭和22年)に日本社会党から衆議院議員選挙に出馬、初当選。後、社会革新党を経て吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。池田勇人の宏池会に所属し長く党務を中心に活動した後、第1次池田内閣では郵政大臣に就任。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。
1980年(昭和55年)5月、自民党が過半数を占める衆議院で、社会党提出の大平正芳内閣不信任案採決に、三木派、福田派などの反主流派自民党議員が多数欠席し、不信任案が可決された。大平首相はこれに対抗して衆議院を解散(ハプニング解散)することとし、参議院選挙の日程を繰り上げて、初の衆参同日選挙を行うことにした。だが、大平は選挙戦突入の初日に心臓発作で倒れ、選挙戦中盤に死亡する展開となった。選挙結果は、首相の憤死への同情から、衆参両院における自民の圧勝となる。この結果は予想されたものではなく、解散時における世論調査では、大平内閣の支持率21%に対して不支持率は41%だった。国民は自民の内紛に嫌気がさして、野党支持が自民党支持を上回っていた。このような状況での内閣不信任案可決と解散とに財界は困惑し、経団連の土光敏夫会長は、記者会見で「1番悪いケースになった。……不満を禁じえない。この際、自民党がもっと結束してことに当たってほしかった」と述べた。自民党は、この同日選挙に向かって、財界に50億円の政治資金拠出を要請、財界側は自民党の分裂回避を条件として応ずることとなった。これを契機に、反主流派の新党論も消滅し、同時に主流派の側も、不信任案審議時の欠席者の責任を不問にした。
大平が死去したとき、伊東正義官房長官が内閣法の規定により首相臨時代理を、西村英一自民党副総裁が総裁臨時代行を務めたが、選挙は主流派を代表する形で、総務会長の鈴木善幸が財界との交渉も含め取り仕切った。鈴木は総理を目指すのではなく、大平を総理にすることに努力してきた人間であった。選挙が圧勝で終わったとき、不信任の可決から始まった騒動だけに反主流派に首相候補を立てる元気はなかった。一時、伊東官房長官や西村副総裁を次期首相とする構想も出たが、財界交渉を行っていた鈴木が大平政権を継承する形で総理・総裁の座に就任することになった。