針尾島(はりおじま)は長崎県佐世保市の南西部に位置し、大村湾に浮かぶ島。西海市と針尾瀬戸を境に接する。温州みかんの栽培が盛んである。
なお、この項目では佐世保市の一地域としての針尾(旧東彼杵郡崎針尾村)と江上(えがみ、旧東彼杵郡江上村)についても記述する。
目次
1 地形・地質
2 歴史
3 町名
3.1 江上地区
3.2 針尾地区
4 交通
4.1 バス
5 道路
6 施設
6.1 公共
6.2 教育機関
6.2.1 中学校
6.2.2 小学校
7 名勝・史跡・観光
8 その他
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流紋岩質の溶岩台地で、西海岸を除く三方は安久ノ浦・牛ノ浦・恵比寿湾・鯛ノ浦・江上浦など深い入江と大崎・口木崎・赤崎・明星鼻・錐崎など急峻な半島が複雑な海岸線を形作っている。中央部で江上浦と恵比寿湾が食い込み、ここを境に北東部を江上地区、南西部を針尾地区に分ける。東海岸は早岐瀬戸に面し、土砂の堆積が相次ぎ干潟をともなう平地が広がっている。江戸時代以降の干拓事業により、早岐瀬戸沿岸と江上浦は農地化されている。
溶岩台地は侵食が進み、稲作に不向きで果樹栽培に適した水はけのよい土壌をなす。また低質黒曜石の塊が島内各地の表土に混入し、旧石器-縄文時代には石器原料の供給地として機能していた。また流紋岩露頭が北西部や南西部に見られ、三川内焼を始めた朝鮮陶工がこれに目をつけ、磁器の原料として活用を試みたが、実用に耐えないものだったために断念した記録がある。
早岐瀬戸沿岸と江上浦を除くと深い入江のため、水産資源の種類は豊富であるが、産業としての採算ベースには乗らない。浦頭港や崎針尾漁港、西海橋下の地磯などフィッシングスポットは多く、底物から磯物、サビキ釣りなど多様な釣りが楽しめる。江上浦沖では真珠養殖が行われている。
黒曜石団塊が表土上に散在する土地柄のため、石器を求めて縄文時代から人々が住み着いていた。江上浦入口の松ヶ崎には古墳と思われる土盛が発見されている。
中世には各地に経塚が作られ、それなりの勢力を持つ土豪が現れ始める。戦国時代までに、江上の佐志方氏と針尾の針尾氏を頂点とする武士団に集約され、松浦氏と大村氏の境界争いの際には優勢な勢力に味方しつつ保全を図った。小鯛城主・針尾伊賀守は大村純忠暗殺計画の際に横瀬浦に居留する宣教師ルイス・フロイスの虐殺を担当し、未遂に終わったことで知られている。最終的に針尾島は平戸藩の領地となって江戸時代を迎えた。
戦国時代より前から、早岐瀬戸をはさむ対岸の早岐とは交流が深く、島側の有福と対岸の早岐を結ぶ渡し舟が自然発生した。観潮橋が竣工するまで渡し舟は健在で、のちには早岐瀬戸南口の金山と対岸の崎岡の間にも渡し舟が設定された。
藩政下では、早岐瀬戸沿岸や江上浦の干拓事業が推進され、広大な水田・塩田が造成された。ハウステンボスが建つ赤子新田もこの時に完成した。また平戸藩主が長崎勤番に向かう際には、陸路の平戸往還とは別に、佐世保湾・大村湾経由の海路も設定され、鯛ノ浦は藩主の停泊地となった。幕末に長崎への異国船進入が頻発するようになると、長崎から平戸にいたる狼煙による通信ルートが設定され、錐崎に狼煙場が設定された。
廃藩置県後に何度かの変遷を経て、地方自治体として江上村と崎針尾村が制定され、昭和30年(1955年)に佐世保市へ編入されるまで2ヶ村が並立した。明治初期に針尾出身の儒学者で、平戸や京都で藩主に仕えた楠本端山・楠本碩水兄弟が帰郷し、私塾鳳鳴書院を開いた。義務教育が普及するまで、旧松浦藩の儒学者・教育者を育成した。
佐世保軍港の拡張に合わせて、佐世保湾に面する針尾島西岸には軍事施設が設置されるようになった。針尾送信所が最大の施設である。一方で、戦艦・航空母艦の停泊地として恵比寿湾が指定され、安久ノ浦・牛ノ浦に弾薬庫が設置されるなど、地元住民の活動にも制限が加わるようになる。太平洋戦争が激化すると、赤子新田に針尾海兵団が新設され、兵学校針尾分校も併設された。
敗戦と同時に外地からの引き揚げ事業が始まると、恵比寿湾奥の浦頭港が上陸港に指定された。引揚者は浦頭港から上陸し、消毒処理後に徒歩または牛車・馬車によって海兵団を転用した引揚援護局に移動し、仮住まいした。現在、浦頭港を見下ろす丘に記念公園と資料館が設置されている。また、援護局隣接地には、帰郷を目前に無念の死を遂げた無縁仏を供養するために釜墓地が開かれている。
引揚局が昭和25年(1950年)5月15日をもって閉鎖されたのち、跡地は陸上自衛隊針尾駐屯地、長崎県造成による針尾工業団地を経て現在のハウステンボスになっている。
昭和30年(1955年)10月18日に西海橋の開通式が挙行され、針尾島は行き止まりの辺境から佐世保?長崎を短絡する通過地へと変貌する。当初こそ高い通行料が嫌われて利用者は少なかったが、やがて需要が伸びて大動脈へと成長していった。昭和33年(1958年)には西海橋直下の海岸に西海橋遊園地が開かれ、渦潮と西海橋を見物する観光客は急増した。
昭和50年代に大きな動きはなく、徐々に針尾地区の過疎化が進行する一方、江上地区の都市化が進行している。昭和63年(1988年)には、針尾地区の西海橋遊園地が閉園を迎える一方、江上地区ではハウステンボス安全祈願祭・江上大島橋開通式・サンレモリハビリ病院着工と地場新興プロジェクトが連続している。有人島ながら橋がなかった江上大島と針尾島の往復には、伝統的な手繰船が用いられていた。