金戒光明寺
金戒光明寺の高麗門
所在地京都府京都市左京区黒谷町121
位置 ⇒北緯35度1分10.70秒
東経135度47分16.90秒
山号紫雲山
宗派浄土宗
本尊阿弥陀如来
創建年1175年(承安5年)
開基法然
別称黒谷、白河禅房
札所等法然上人二十五霊跡 第二十四番
洛陽三十三所観音霊場 第六番
文化財文殊塔(三重塔)、木造千手観音立像、山越阿弥陀図・地獄極楽図(重要文化財)
表・話・編・歴
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろたにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである。
目次
1 歴史
1.1 京都守護職本陣
2 伽藍
3 文化財
3.1 重要文化財
3.2 その他
4 熊谷次郎直実
5 境内の墓所
6 歴代法主
7 脚注
8 参考文献
9 外部リンク
10 ギャラリー
11 映画撮影・ロケ
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承安5年(1175年)春、法然が比叡山の黒谷を下った。その後岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。するとその石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然はここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と白川の本房を法然に与えた。そのため比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んた。後に法然は信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、信空はこの地に住んだ。その後岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。なお比叡山では黒谷を現在も黒谷と呼ぶ。第5世恵の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。第8世運空は後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因み、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。徳川初期に城郭構造に改修された。文久2年(1862年)京都守護職の本陣となった。第二次大戦後「黒谷浄土宗」として一派独立するが現在は浄土宗に合流し七大本山の一翼を担う。御詠歌「池の水ひとの心に似たりけり 濁り澄むこと定めなければ」
金戒光明寺は徳川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められていた。会津藩主松平容保公が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって薩摩藩・長州藩が京都の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。 このころ中間として出入りしていた侠客が「会津の小鉄」(上坂仙吉)である。
伽藍金戒光明寺の山門金戒光明寺の山門より御影堂を望む
御影堂(みえいどう) - 大殿(だいでん)とも言う。法然75歳時の肖像(坐像)を安置。昭和9年、火災により焼失昭和19年(1944年)に再建。
山門 - 応仁の乱で焼失。 万延元年(1860年)に再建。後小松天皇の「浄土真宗最初門」の額がかかる。
阿弥陀堂 - 慶長10年(1612年)豊臣秀頼が再建した。
文殊塔(三重塔)(重要文化財) - 寛永10年(1633年)建立。本尊文殊菩薩と脇侍像を安置する(これらの像は運慶作と伝えられるが実際の作者は不明)。
大方丈 - 昭和9年、火災により焼失昭和19年(1944年)に再建。
院内塔頭 紫雲山蓮池院 - 熊谷次郎直実が出家し、法力房蓮生となり、庵を結んだ場所。蓮生は建永元年8月(1206年)翌2月8日に極楽浄土に生まれると、予告往生の高札を武蔵村岡の市に立てたが果たせず、京都に戻り、ここ東山の草庵で、承元2年9月14日(1208年10月25日)に往生したと「吾妻鏡」にある(別説あり)。通称寺の名称を熊谷堂と呼ぶ。直実が兜を置いたので蓮池を別名「兜之池」という。その後春日局は、池に蓮を植え、堂を改修して名を蓮池院熊谷堂と改称した。