金大中
???
2002年2月20日、青瓦台韓国大統領官邸におけるブッシュ米大統領との会談の日に。
大韓民国第15代大統領
任期:1998年 ? 2003年
出生:1925年12月3日
全羅南道新安郡
政党:新千年民主党
配偶:李姫鎬
金大中
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各種表記
ハングル:???
漢字:金大中
平仮名:
(日本語読み仮名)きんだいちゅう
片仮名:
(現地語読み仮名)キムデジュン
ラテン文字転写:Gim Dae-jung/Kim Tae-jung
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金大中(キム・デジュン、1925年12月3日 - )は、大韓民国の政治家、第15代大統領(在任:1998年-2003年)。本貫は金海金氏。号は「後廣」(フグァン、??)。ニックネームは忍冬草。略称はDJ。カトリック教徒で、洗礼名はトマス・モア。植民地時代の日本名は豊田大中(-1945年)。
目次
1 来歴
2 対北送金
3 その他
4 外部リンク
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25年(大正14年)全羅南道荷衣島(現在の新安郡)生まれ。43年(昭和18年)木浦公立商業学校(現木浦第一高校)卒業、慶煕大学大学院経済学科2年課程修了。運送業を経て、1954年の総選挙で国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿勢で活動したが、1959年、1960年と立て続けに落選を経験した。1961年に補欠選挙で国会議員へ初当選しているが朴正煕による軍事クーデターにより無効となっている。その後は野党政治家として活躍し、1963年と1967年の第6代、第7代、国会議員選挙で連続当選し、とうとう1970年9月に新民党の大統領候補に指名される。翌1971年の大統領選では現職の朴正煕に97万票差にまで迫った。この大統領選の直後、交通事故を装った暗殺工作に遭い、股関節の障害を負うことになる。
朴正煕による十月維新の後は日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだ。1973年(昭和48年)8月8日、東京に滞在中、ホテルグランドパレスで謀殺を意図した韓国中央情報部によって拉致され、ソウルで軟禁状態に置かれた(金大中事件)。1976年3月には尹?善らと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲役判決を受けるも、1978年3月に釈放される。1980年2月19日には公民権を回復・政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が鎮圧し、流血の惨事となる(光州事件)。このため軍法会議で首謀者として死刑判決を受ける。このことに対して、当時の鈴木善幸首相は、11月21日に崔慶禄駐日大使と会談し「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に死刑判決に対する国際的な批判が強まり、1982年1月23日に閣議検定により無期懲役に減刑される事が決定し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止される。
1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、1987年には再び公民権を回復、大統領選挙で平和民主党を結成し、盧泰愚に挑むものの、金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招き敗北。1992年にも再び金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも敗北。これをもって金大中は政界引退を表明した。その後研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まっていた1995年、新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰した。
1997年の大統領選挙では与党ハンナラ党の李会昌、ハンナラ党内での予備選に敗退した李仁済を相手に戦った。与党の強力な集票力に当選を危ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった金鍾泌と手を結び(いわゆるDJP連合。ちなみに両氏は共に金海金氏である)、また度重なる敗北を逆手に取り「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、アジア通貨危機への対応能力をアピールした。