里山(さとやま)とは、集落、人里に接した山、あるいはこうした地形において人間の影響を受けた生態系が存在している状態を指す言葉である。
目次
1 里山という語
2 里山の歴史
3 里山の利用法
4 里山の管理・所有体制
5 里山の植生
6 里山の植生についての議論
7 入会地(ローカル・コモンズ)としての里山
8 里山の価値
9 里山の保全に向けた動き
9.1 主な手入れと利用方法
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク
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文献上、最初に「里山」という単語が現れるのは1759年6月に尾張藩が作成した「木曽御材木方」という文書においてである。これによると里山とは「村里家居近き山をさして里山と申候」と定義されるものである[1]。
一方、現在のような里山の再評価に直接繋がる言論活動を開始した人物という意味では、京都大学農学部・京都府立大学などの教官を務めた四手井綱英が、今日のような「里山」概念の普及に最も大きな影響を与えたとされている。
日本列島において、継続的に人間の手が入る森林が出現した時期は、少なくとも縄文時代までは遡ることが出来る。三内丸山遺跡の研究によって、この遺跡に起居していた縄文人集団が近隣の森に栽培種のクリやウルシを植えて利用していたことが明らかとなっている[2]。
しかし歴史時代に入るとともに日本列島の里山は乱伐と保護を繰り返していくこととなる。最初に里山のオーバーユースによる森林破壊が顕在化したのは畿内であり、日本書紀によると、天武天皇の6年(676年)には南淵山、細川山などで木を伐採することを禁じる勅令が出されている。
だが日本列島における森林破壊は進行し、800年代までには畿内の森林の相当部分が、また1000年頃までには四国の森林も失われ、1550年代までにこの二つの地域の森林を中心にして日本列島全体の25%の森林が失われたと考えられている[3]。
織豊政権期、江戸時代に入っても日本列島の森林破壊は留まる所を知らず、1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は失われた。こうした激烈な森林破壊の背景には日本列島の人口の急激な膨張による建材需要や、大規模な寺社・城郭の造営が相次いだことがあったと考えられている[4]。
すなわち、18世紀に至るまで日本列島の里山は継続的にオーバーユース状態にあった(「はげ山」参照)のであり、決して「持続可能な」利用が為されていたわけでは無いのである。こうした広範な森林破壊は木材供給の逼迫をもたらしたのみならず、山林火災の増加、台風被害の激甚化、河川氾濫の増加など様々な災厄を日本列島にもたらすこととなった。
このような状況を憂慮した徳川幕府は1666年以降、森林保護政策に乗りだし、森林資源の回復促進と厳格な伐採規制・流通規制を敷いた。こうした抜本的な対策の結果、日本列島の森林資源は何とか回復に転じ、里山の「持続可能な」利用も実現したのである。放置されアズマネザサに覆われた里山
だが、近世の「持続可能な」里山利用は近代に入ると3度の危機に瀕することになる。最初の危機は明治維新前後で、旧体制の瓦解とともに木材の盗伐・乱伐が横行し、里山の森林は急激に失われた。その後、社会の安定とともに里山の植生は一定の回復を見るものの、太平洋戦争が始まり物資が欠乏すると再び過度の伐採が行われ、各地に禿げ山が出現していった。この時には軍需物質として大木が次々に供出させられたとされる。戦中・戦後の乱伐からの回復は、1950年に始まる国土緑化運動の成果を待たねばならなかった[5]。
そして3度目の危機が、現在まで続く里山の宅地化・里山の放置である。1955年頃から始まった家庭用燃料の化石燃料化は、1975年頃には完全に終了し、家庭用燃料としての薪・木炭は娯楽用途を除きほぼ姿を消していた。また化学肥料の普及、使役家畜の消滅も里山の経済価値を失わせる方向に作用した。こうして経済価値を失った里山は、1960年代に入ると次々に宅地化されて消滅していった。中でも大規模なのが千里ニュータウン、高蔵寺ニュータウン、多摩ニュータウン、千葉ニュータウンなどのニュータウン群であった。これら郊外の宅地化は、高度経済成長時代に都市に流入した労働力に住居を供給する為のものだった[6]。宅地化を免れた里山も、利用価値の殆どが失われた為に放置され、人間の関与が失われたことによる植生の変化(極相林化や孟宗竹の侵入による竹林化)、不法投棄される粗大ゴミや産業廃棄物による汚染に曝されている。
里山は様々な形で利用されて来た。単に木材の供給源としてだけでなく、落ち葉や下生えは田畑の肥料に利用されていた。また農作業の合間に里山に入って薪やキノコを得ることは、近世の農民にとって現銀収入を得る最も簡便な方法であった。緊急時の木材・現銀供給源を兼ねた水源涵養林として意図的に森林の伐採を行わない里山もあった。
珍しい里山の利用法としては、製塩の為の燃料の供給源というものもある。こうした里山は塩木山と呼ばれた。製塩は大量の燃料を必要とする(年間通して操業する場合、塩田の面積の75倍の広さの森林を全て燃料として1年で消費しなければならない)為、製塩業にとって塩木山の確保は死活問題であった。記録では8世紀後半から東大寺や西大寺などの大寺院の荘園として塩木山が存在していることが知られている。近世になると製塩業向けの燃料としての薪販売は、特に山陽地方において盛んとなった。このようなケースでは、薪を生産するのは河川によって塩田と結ばれた山間地の村であった。