この項目では戦国時代に、三河国の土豪であった酒井氏と、その末裔である江戸時代の譜代大名である酒井氏について説明しています。
戦国時代に上総国北部の土豪であった酒井氏については上総酒井氏をご覧ください。
その他酒井氏と酒井一般については酒井をご覧ください。
酒井家上屋敷跡
千代田区、丸の内
酒井氏(さかいし)は、三河国の在地領主(土豪)で、松平氏・徳川氏の最古参の譜代筆頭で、松平氏と同族という。
目次
1 概要
2 出自
2.1 酒井氏系譜
3 左衛門尉酒井家
4 雅楽頭酒井家
5 酒井氏の大名家
5.1 左衛門尉酒井家
5.1.1 左衛門尉酒井家系譜
5.2 雅楽頭酒井家
5.2.1 雅楽頭酒井家系譜
6 関連項目
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徳川幕府の古記録である柳営秘鑑では、「三河安祥之七御普代、酒井左衛門尉、元来御普代上座」、とある。
また、葵之御紋来由の項目に、「坂伊ノ卿より為加勢来りし」、とあり、出身地の酒井郷;坂井郷は、もと坂伊と呼んだと見える。
同じく、柳営秘鑑には、徳川家の三つ葉葵の家紋が、酒井氏より由来することが詳細に記載されている。
「御当家に用させた満(ま)ふ所之物之内ニ三ッ葵ノ葉の御紋ハ 御当家御譲祖徳川信光公の御時 文明十一巳亥七月十五日参州安祥城攻之時 今の酒井等の祖酒井五郎親清、(中略)盃に葵の葉三ツ鼎のごとくならへ (中略)信光公大ひ尓(に)御喜悦尓(に)て今度の敵を討事 掌を指がごとし。既尓(に)当家の吉瑞となる遍(べ)きな連(れ)ハ 只今の三葵の葉を以て自分ハ汝が家能(の)紋とせよ被傳出尓付て酒井親清畏て酒井能(の)家の紋とせり。必定、此軍尓御勝利なり。」
「其後信光公の御孫徳川次郎三郎長親公の御時 文亀元辛酉年九月 今川家大将伊勢新九郎長氏入道早雲と岩付の城下に於て御合戦御勝利なり。此時の先陣ハ酒井左衛門尉氏忠入道浄賢舎 両酒井を御前に召連て、昨日汝等が働、抜群之。殊尓汝が葵の紋の籏風に翻ひて見事なりき。今是を家に返しくれよ。」(引用部の()内は直前の漢字の訓み)
よって、これより松平氏は三ツ葉葵紋を我家の紋として、この吉例を子孫に伝遍したという。
酒井氏は元来、三河国碧海郡酒井村あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主であったと考えられている。江戸時代に作成された酒井氏の系譜によると、大江氏の流れを汲み、その祖は大江広元とされ、大江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流という。その後、14世紀の末頃に酒井郷の領主であった酒井忠明の子が酒井忠時(酒井太郎左衛門少尉忠時)で、さらに忠時の子に当たる酒井忠則は、時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。
もとよりこれらは、松平氏の出自に関するのと同類の伝説であって、事実は広親以前に確かな系図をたどることが出来ず、また松平氏と同族の清和源氏新田氏流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる(実際、酒井氏は大江氏とは無関係の海東氏の一族が正しいようである)。
酒井広親は松平郷にて松平氏に仕え、譜代家臣となったとされる。その後の酒井氏は、広親の子から二家に分かれる(あるいは広親の子の酒井五郎親時の子の時ともされる。)。
酒井氏の家紋は新田氏以来の片喰紋であり、一族や子孫は、それに装飾を加えた「丸に片喰」や「丸に剣片喰」などの家紋になる。
酒井氏系譜凡例 太線は実子。(養子はあえて記さず。) 親氏 (松平氏初代) ┏━━━━━━╋━━━━━━┓ 松平信広 泰親 広親(松平郷松平家) (松平氏2代)(称 酒井氏) ┣━━━━━━━┓ 氏忠 家忠 ┃ ┃ 忠勝 信親 ┃ ┃ 康忠 家次 ┣━━━┓? ┃ 忠親 忠尚 清秀 ┃ ┃ 忠次 正親 (左衛門尉家) (雅楽頭家)
広親の長男とされる酒井氏忠(親忠)の家系は代々左衛門尉を名乗ったので左衛門尉(さえもんのじょう)家といい、初代・氏忠から数えて5代目が酒井忠次となる。
忠次は、松平広忠・家康父子に仕えた重臣として知られる。重臣家の嫡子であった忠次は家康より15歳年長で、幼ない家康が駿府人質生活を送っていた際にも随従し、苦楽を供にしてきた家康から信頼を寄せられるようになった。
桶狭間の戦い以後には、故・広忠の異母妹を正室とされた(のちの碓氷姫。当時、未亡人であった)。こうして家康の義理の叔父という間柄にまで高められたことから、徳川家臣団の中で益々重用され、ついには吉田城(豊橋市)を託される事となった。「東三河の旗頭」として東三河4郡に住す国人領主たちを統卒、家康の青壮年期にあった多くの合戦でも彼等を率いて活躍。