郭皇后_(宋仁宗)

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郭皇后(かくこうごう、1012年 - 1035年)は、北宋の第4代皇帝仁宗の最初の皇后

応州金城の出身。天聖2年(1024年)に立后したが、仁宗はもっぱら張美人(温成張貴妃)を寵愛しており、郭皇后が目通りするのは稀であった。仁宗は張妃を皇后に立てたいと望んだが、義母の劉皇太后が反対したため沙汰やみとなった。

後、尚美人と楊美人がともに寵愛を受けるに至って、郭皇后はたびたび嫉妬に忿怒したという。あるとき、尚美人が仁宗の御前において、皇后の言葉を遮って話すという失礼を犯した。怒った郭皇后が尚美人の頬を叩こうとしたところ、止めに入った仁宗の顔を誤って叩いてしまい、また、皇后の爪が仁宗の頬を傷つけてしまった。激怒した仁宗は、閻文応や呂夷簡に顔の傷を見せ、廃后の相談をした。呂夷簡は皇后によって職務を罷免されたことで怨みを持っており、「古にもまた(廃后という)例はございます」と言ったため、ついに郭皇后は廃されてしまった。中丞の孔道輔、諫官御史の范仲淹や段少連ら10人が「皇后に過ちはありません、廃してはなりません」と訴えたが、かえって罰せられた。

廃后となった郭氏は道姑として出家させられ、「浄妃」「玉京沖妙仙師」の称号と「清悟」という道名を下賜された上で、居を長楽宮に移された。景祐元年(1034年)、郭妃の身柄は瑤華宮に移り、「金庭教主」「沖静元帥」といった称号を賜った。一方、尚美人も廃されて洞真宮で道姑として出家、楊美人も別宅に置かれることとなった。

後年、仁宗は郭妃を想うこと甚だしかった。そこで見舞いの使者を遣わしたところ、妃の返答が大変に沈痛であったので、仁宗は憐れに思い、密かに召し出した。妃は「もし、再びお召しを賜るのなら、百官の立つなかで(皇后に)冊立する場であって下さい。」と言ったという。やがて、郭妃が軽い病を患ったので、仁宗は閻文応を使者に立て、典医を遣わしたが、数日後に郭妃は急死した。宮中でも巷間でも、閻文応が毒を盛ったのではないかと疑ったが、真相は分からなかった。

仁宗は郭氏の死を深く哀悼し、皇后の位に復せしめたが、を賜ることと宗廟に祀ることは停じた。 カテゴリ: 宋の皇后 | 1012年生 | 1035年没

更新日時:2008年7月27日(日)04:44
取得日時:2008/11/13 23:13


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki