郡(ぐん)は、地方行政区画の一種。本来は古代中国に発祥し、朝鮮・日本などの漢字文化圏に導入されたものである。
なお、欧米などの行政区画の一部を日本語に翻訳するときに、訳語としてこの語を当てることがある(カウンティも参照)。
目次
1 中国の郡
1.1 郡の発祥
2 日本の郡
2.1 古代
2.2 中世・近世
2.3 近現代
3 朝鮮の郡
3.1 大韓民国の郡
3.2 朝鮮民主主義人民共和国の郡
4 翻訳語としての郡
5 関連項目
6 外部リンク
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中国の歴史的な郡は、県と呼ばれる地域の中核都市を中心とした行政区画を複数まとめて管轄する上位の行政区画である。
後世中国と呼ばれるようになる地域の原型を形作った、古代の黄河流域中原地域や、この地域から強い文化的影響を受けた周辺地域は、都市国家の世界であった。人々は版築と呼ばれる、土をつき固める技法で作られた城壁で防御された都市的な集落で生活を営み、やがて強力な大都市が周囲の弱小都市を従えるネットワーク状の国家を形成していった。こうした国家を「邦」(ただし、漢代以降、漢初代皇帝劉邦の避諱により、「国」と呼ぶようになる)と呼び、これらの諸邦を呪術的、軍事的に威圧して盟主的に振舞ったのが、商や周といった邦であり、またその君主の王たちであった。
その後、強力な邦は弱小な邦を屈服させて支配域を拡大していったが、当初は中核になる都市国家内部の族的結合や、その中の指導的立場にあって戦車を駆って弓矢と戈で戦い、軍事力の主力となった士、大夫といった族長層(都市貴族層)が邦の軍事力維持のために重要であったため、その内部の共同体構造は温存された。しかし、鉄器が大量生産されて農具に用いられるようになり、農耕地が爆発的に拡大するようになった戦国時代になると、諸邦の構造は支配下の都市のネットワークから領域的な性格が色濃くなる変化を見せ、軍事的にも農民を徴用した歩兵の大集団が戦力の主体となるに至った。
こうなるともはや支配下の諸都市の伝統的共同体構造の維持は重要ではなくなり、地方の中核都市は自治権を取り上げられ、中央から派遣された役人に支配される単なる行政区画となる。これを県と呼ぶ。さらに、いくつかの県をとりまとめて軍事警察的に把握し続けるための軍管区が設定され、これを郡と呼んだ。この体制は郡県制と呼ばれ、天下を統一した始皇帝の秦の下、秦に征服された全領域に施行されるに至った。
古代の郡は、律令制の行政区画で、国(=令制国)の下に置かれた。『日本書紀』は、大化の改新の時に郡(こおり)が成立したと記すが、当時は実際には評(こおり)と書いていた。大宝律令の成立の時に郡となり、かつての国造などが郡司となって管轄した。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡が在ったとされる。単位系では、郡の下に郷、郷の下に里が置かれた。
しかし10世紀には、筆頭国司である受領の権力強化などにより、郡の機能は低下し始めた。11世紀には、荘園が一円領域化して国衙の支配から自立し、郡の管轄からも外れて行った。国衙の側も残された公領を再編成し、下部に郷を組織した郡から国衙に直結した、郡、郷、保、院、条、別名などの並立体制となった。これに伴い、旧来の在地豪族の系譜を引く郡司層は急速に没落した。没落した郡司層の多くが国衙に近侍し、在庁官人となった。在庁官人には他に受領が引き連れてきた実務官僚などが加わり、新たに再編された郡司、郷司、保司などの管理者として任命された。また、受領自体が任期中に私領を獲得したり、在地豪族に入婿したりして土着化し、子弟が在庁官人化するケースも見られる。やがてこれら在庁官人は武士化していった。
鎌倉時代になると、国内に並列する荘園、郡、郷、保などは、管理者である荘司、郡司、郷司、保司らの多くが御家人となり、地頭に任命され、武士たちの基礎的な領地の単位となった。
戦国時代には、大名の領国に対する支配強化の一環として、郡単位での支配郡ごとに郡代がおかれるようになった。江戸時代にも、各藩と江戸幕府は、郡を地方統治の単位として用いた。
明治初年の郡は地理的区分に留まっていたが、1878年の郡区町村編制法で行政区画としての郡が復活した。同法は、府県の下に郡を置いて、郡長を任命する事を定めた。この時に、大きな郡を分割したり、小さな郡同士で合併したりした。この制度下の郡は自治体ではなく、郡長以下は中央政府の官僚であった。郡の役人が勤務する役所は、郡役所といった。
1890年に郡制が公布された。郡は府県と町村の中間の地方公共団体として規定され、郡会が置かれ、郡会議員が選挙された。1896年に沖縄県に郡が編成された。
1921年には郡制廃止法が発布され、1923年に郡会が廃止され、1926年に郡長と郡役所が廃止されると、郡は再び単なる地理的区分になった。