郡山城
(奈良県)
天守台付近
城郭構造輪郭式平山城
天守構造不明
築城主筒井順慶
築城年天正8年(1580年)
主な改修者豊臣秀長、増田長盛
主な城主筒井氏、豊臣氏、増田氏、
水野氏、柳沢氏
廃城年明治6年(1873年)
遺構石垣、堀
指定文化財奈良県史跡
再建造物櫓・門
位置 ⇒北緯34度39分6.9秒
東経135度46分44.18秒
表・話・編・歴
郡山城惣構え。国土交通省 ⇒国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。桜門跡付近から常盤曲輪方面を望む
郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市に築かれた城。平山城に分類される。戦国大名筒井順慶により築城が開始され、豊臣政権では秀吉の弟秀長の居城となり、江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた城である。
目次
1 概要
2 逆さ地蔵
3 関連項目
4 外部リンク
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戦国期以前から小規模な城があったが、松永久秀が滅び織田信長の下で事実上大和国の主となった筒井順慶が、天正8(1580)年にそれまで居城としていた筒井城(大和郡山市)から移り新たな城郭の建築を開始した。天正11(1583)年4月、天守閣完成する。(『多聞院日記』)
順慶の死後、養子の定次は伊賀上野に転封となり、天正13(1585)年豊臣秀吉の弟秀長が大和・和泉・紀伊三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、新たに七重の天守閣の建造も開始された。なお大和は石材に乏しい国であったために、天守台の石垣に墓石や地蔵までもが用いられている。また城下町を大いに発展させた。町人地は、職業別、出身地別に町名が付けられ、これらの町名は現在も残っている。
秀長とその養子秀保の死後大和大納言家は断絶し、文禄4(1595)年五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。このとき約48町13間(後に50町に拡張)に及ぶ堀と土塁で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され郡山は城郭都市の様相を呈するに至った。
関ヶ原後に長盛は高野山に追放となり、徳川氏の命令で郡山城の建築物は伏見城に移築された。城は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番した。また大坂夏の陣では筒井一族の筒井定慶らが徳川家康から1万石を与えられ僅かな手勢を率いて拠っていたが、緒戦で豊臣方の大野治房の攻撃を受けると衆寡敵せず定慶は城を棄て逃亡。落城している。
戦後は夏の陣で大いに軍功のあった水野勝成が三河刈谷から移り、城郭の修築を行った。勝成は備後福山に転封となり、以後松平家や本多家を経て享保9(1724)年に柳沢吉里が甲府から移り、以後明治まで柳沢家が続いた。
明治維新後廃城令が出され、明治6(1873)年郡山城は破却された。このとき櫓・門・塀などの建築物は全て解体されたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。付近の永慶寺には城門が山門として移築され現存している。
現在城跡には遺構の他に、柳沢家初代郡山藩主吉里の父吉保を祀る柳沢神社(本丸)、柳沢家時代の史料を保管する柳沢文庫(毘沙門曲輪)、市民会館(常盤曲輪)等がある。さらに郡山高校(二の丸屋形跡)・城内高校(麒麟曲輪)の二校などがあったが、平成16年4月に城内高校は郡山高校に統合されている。
また、柳沢神社創立時に植えられた桜は実に見事で、日本さくら名所100選にも選ばれ、毎年4月1日から行われる「おしろまつり」には多くの花見客でにぎわう。