遠山獎志
阪神タイガース No.75
基本情報
国籍 日本
出身地熊本県葦北郡芦北町
生年月日1967年7月21日(41歳)
身長
体重178cm
91kg
選手情報
投球・打席左投左打
守備位置投手
プロ入り1985年 ドラフト1位
初出場1986年4月27日
最終出場2002年10月14日
経歴
八代第一高校
阪神タイガース(1986 - 1990)
ロッテオリオンズ
千葉ロッテマリーンズ(1991 - 1997)
阪神タイガース(1998 - 2002)
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手
遠山 奬志(とおやま しょうじ、1967年7月21日 - )は、元プロ野球選手。熊本県葦北郡田浦町(現:芦北町)出身。左投げ左打ち。プロ入り初年から1998年までは「遠山 昭治」。愛称は遠山の金さん、遠山桜。
目次
1 来歴・人物
2 投手成績
3 打撃成績
4 タイトル・表彰
5 背番号
6 関連項目
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八代第一高等学校(現・秀岳館高等学校)から1985年ドラフト1位(クジで逃した清原和博の代わり)で阪神タイガースに入団。1年目に先発として8勝をあげるが、広島東洋カープの長冨浩志に及ばず新人王を逃す。翌1987年に故障し以降低迷。1990年シーズンオフ、1番打者を必要としていた阪神の意向で高橋慶彦とのトレードが成立しロッテオリオンズへ移籍。ロッテでも投手として結果を残せず1995年より打者転向を図り、1996年にイースタン・リーグ最多安打を記録するなど非凡さを見せるが、1997年は一軍出場無くシーズン終了後にロッテを自由契約になる。
同年シーズンオフに野手として阪神の入団テストを受け、投手として合格。当時の吉田義男監督と古沢憲司コーチから「おまえに1年のあいだ猶予を与えるから投手として2軍で体を作り直してこい」と最後のチャンスをもらい古巣に復帰。投手に再転向するために1998年はシーズンの大半を二軍での練習に費やした。サイドスローに転向し、1999年には「奬志」に登録名を変更。
同年より「野村再生工場」こと野村克也監督のもとでシュートを習得して復活し、野村阪神の左の中継ぎエースとして活躍した。横手投げの変則モーションを生かして主に左打者へのワンポイントリリーフとして活躍。特に1999年には当時の読売ジャイアンツの松井秀喜を13打数無安打に抑え込み、6月13日巨人13回戦ではピンチで前のバッター敬遠で松井勝負で三振に打ち取るなど「松井キラー」と呼ばれた(ちなみに松井はこの時期「(遠山の)顔も見たくない」と憂鬱そうに語ったり、ヤンキース移籍後も「討ち取られる夢を見た」と話すなど、大なり小なりトラウマとなっているようだ)。この年、10年のブランクを経て勝利投手となり、史上最長ブランクの勝利記録となった。
絶対的な抑えのいないチーム事情と野手経験もある事から、継投の際に一塁を守る事もあった。2000年には右横手投げの中継ぎ投手・葛西稔とともに、相手の打者の左右によって交互に「遠山・葛西・遠山・葛西」と一塁と投手とを交代しあって登板するワンポイント継投がしばしば行われた。これは後に「遠山・葛西スペシャル」と呼ばれ野村監督の必殺技とも言われた。ただし遠山本人は「あれは実際辛かった。投手にしてみれば、情けないと言いますか、やっぱり嫌ですよね。「右打者相手でも抑えられる」という信頼が無かったって事ですから。(中略)同じグラウンドにいるから気持ちは切れないんですけど、一塁守った後に前の打席と同じ球を投げられるかどうかは疑問」と後年語っており、あまり乗り気ではなかったようである。
2001年辺りから腰の具合が芳しくなく、星野仙一監督時代の2002年には投球すら満足にできないような状態だったという。そしてシーズン終了を待たずに世代交代を理由に戦力外通告が行われ、そのまま引退した。シーズン最終戦、9回裏2死・走者無しの場面で登板。最後の打者を空振り三振に仕留め、星野監督に肩を抱かれ、号泣しながらマウンドを降りた。
引退後は、マスターズリーグの大阪ロマンズで投手として登板する傍ら、阪神戦を中心に毎日放送・GAORA・サンケイスポーツ(大阪)で野球解説者を務めた。2005年から2軍投手コーチとして阪神に復帰。解説時の口癖は「いい意味で」である。
年度所属背番登板完了当初勝敗S勝率打者投球回被安被本与四与死奪三失点自責防御率
1986阪神2127221850.615549128135143437364604.22
1987914030.00010022 2/330650917155.96
198842118290.18233979 2/38163404836343.84
19891003210.66712528 1/3372701615144.45
1990760000.0004691218081099.00