遊牧ウイグル帝国(The Uyghur Empire 744年?840年)はモンゴル高原からタリム盆地などに勢力を誇った遊牧民を中心とする国家。漢字表記は回?、廻?、回鶻、廻鶻などがある。
目次
1 ウイグル帝国前史
1.1 創成期
1.2 古代テュルク系の上位階層は凡そ下記のとおり(ウイグル帝国初期まで)
1.3 勃興期
1.4 突厥(阿史那賀魯政権)討伐
1.4.1 (右廂)咄陸五部落
1.4.2 (左廂)弩失畢五部落
1.5 第二突厥の成立とウイグルの雌伏
2 ウイグル帝国の誕生
2.1 ウイグルの独立
2.2 初代可汗「Qutluγ Boila」即位
2.3 二代可汗「磨延啜」即位
2.3.1 安史の乱勃発
2.3.2 ウイグル、唐へ援軍を派兵
2.3.3 新店の戦い(757年10月)
2.3.3.1 『旧唐書』廻?伝
2.3.3.2 『新唐書』回鶻伝
2.3.4 唐帝室との婚姻
2.3.5 再度の援軍派遣
2.4 三代可汗「移地健」即位
2.4.1 寧国公主の葬儀の儀礼と唐への帰国
2.4.2 唐との外交
2.4.3 唐の代宗即位とウイグルの出兵
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『新唐書』によれば、その先祖は匈奴であるとされるが、史料が不足しており、確定できていない。『新唐書』によると、北魏の時代に高車部と称したトルコ系の民族であるとされ、トルコにあたるテュルクを敕勒、鉄勒などと表記している。『新唐書』に見えるトルコ系のなかでウイグルに近い部族名は、下記の15種。
袁?(Uyγur : ウイグル)
薛延陀
契?羽
都播(Tuba : トゥバ)
骨利幹(Quriqan : クリカン)
多覧葛(Tala?ut "-t"は複数形)
僕骨(Boqut "-t"は複数形 : ボッコ、「僕固」とも表記)
抜野古(Bayirqu)
同羅(To?ra)
渾(Qun)
思結(Siqit "-t"は複数形)
斛薛
奚結
阿跌(Adis : エディス)
白ショウ(「雨」冠に習)
袁?は烏護、烏?ともいう。隋の時代には韋?(典拠 : 『隋書』鉄勒伝)とよばれた。
初期のUyghurは『旧唐書』廻?伝、『新唐書』回鶻伝などによれば、勇猛だが指導者がおらず、水草を追って転々と放牧生活をおくり、騎射が得意であったことがわかっている。
初期(7世紀初頭)のころ、鉄勒は突厥に従属していたが、西突厥の泥?処羅可汗によって攻められ、財物を奪われた。泥?処羅可汗は鉄勒がそのことを怨むのではないかと疑い恐れ、鉄勒部の主なものたちを集めて、穴埋めにして殺した。そのことから韋?(ウイグル)の首長は僕骨、同羅、抜野古を併せて、西突厥に対して叛旗を翻し、自らをirkin(イルキン : 俟斤)と称した。その俟斤の姓はYaγlaqar(ヤグラカル : 薬羅葛)氏といった。また、ウイグルは薛延陀部族の居住地の北のセレンガ河(娑陵水)の畔に移住した。人口は10万人を数え、その兵数は5万を超えた。(典拠 : 『新唐書』回鶻伝)
注 : 『新唐書』では西突厥に叛旗を翻したときに部族名を回?と称したとするが、回?は唐がそう表記しただけであって、Uyghurが自ら国家の号として使用したわけではない。その後、上記の俟斤と同一人物かは定かにはなっていないが、時健(原音はJeganか : 甥などの意味)俟斤というものがいて、そのものをしてUyghurの大衆は初代の首長として仰いだ。その時健俟斤には菩薩(原音はPusarか)という子がいた。