連合赤軍(れんごうせきぐん)は、1971年から1972年にかけて活動した日本の新左翼武装戦闘組織。
目次
1 連合赤軍の発足
2 連合赤軍事件
3 「総括」とリンチ
4 連合赤軍服務規律
4.1 第一章 三大規律
4.2 第二章 六大原則
4.3 第十四章 彼女
4.4 第十七章
5 脚注
6 連合赤軍に関連した作品
7 関連項目
8 参考文献
9 外部リンク
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1971年、学生運動が下火になり、大菩薩峠事件やよど号ハイジャック事件などで最高幹部クラスの逮捕・国外逃亡などで弱体化していた共産主義者同盟赤軍派の軍事組織である中央軍の残党と、やや旧左翼的体質を持つ日本共産党革命左派神奈川県委員会(別名京浜安保共闘 日本共産党とは無関係[要出典])の軍事組織である人民革命軍が統合し、統一された「赤軍」(統一赤軍)として7月15日付で生まれた。
赤軍派幹部の一人である森恒夫は当初から党の統一を志向していたが、獄中の日本共産党革命左派神奈川県委員会議長である川島豪らの強い反対で連合赤軍に改称された。
1971年12月20日ごろに新党結成が確認され、翌1972年1月3日、独自の中央委員会(CCと略される)が結成される。中央委員会は委員長が森恒夫、副委員長が永田洋子、書記長が坂口弘、その他中央委員は坂東國男、吉野雅邦と他2人がいた。しかし、組織の方針は森と永田の独裁体制であった。
連合赤軍は拠点になる秘密基地を作るために、関東地方の山岳地帯へ移動を開始する(森は毛沢東にならって長征と称した)。そして、軍事訓練と称した集会を開始するが、たちまち内ゲバが始まり、組織は崩壊していった。
1971年12月31日以降、連合赤軍は、山岳ベース事件とあさま山荘事件の二つの重大事件を起こす。これらは連合赤軍事件と呼ばれる。
山岳ベース事件は、あさま山荘事件などで逮捕された者らの自供により明らかになった大量殺人事件である。これは、警察の捜査網から逃れるため山中に山岳ベースと呼ばれる山小屋を建設して潜伏中に、「総括」(詳細は後述)と称して連合赤軍内部で粛清が行われたもので、集団リンチを加えて12名を殺害、死体遺棄した。また、日本共産党革命左派神奈川県委員会は、山岳ベース事件前に党を脱走した20歳男性と21歳女性の2名を殺害している(印旛沼事件)。
あさま山荘事件は、山岳ベースから逃亡した連合赤軍メンバーが、企業の保有する宿泊施設を占拠して起こした篭城事件で、銃器で武装した若者らは9日間にわたり警察とにらみ合った。この模様はテレビで中継され、社会に強い衝撃を与えた。
連合赤軍メンバーは超法規的措置で釈放・国外逃亡した坂東国男と拘置所で自殺した最高幹部の森恒夫を除き、16人のメンバーに判決が確定した。
連合赤軍は、しばしば総括(そうかつ)[1]と称して各人に政治的な反省を迫ることがあった。これはやがて、本人の自覚を助けるとして、周囲の者が総括をされる対象者に対し、意見や批判を行うものに発展した。
山岳ベースでの連合赤軍においてはこれが破綻し、リーダーの森恒夫らは総括に暴力を用いるようになった。一人の人間に対し、仲間全員が暴力を用いて厳しい反省を強要するようになり、実質的なリンチと粛清が展開されるようになった。被害者も政治的指向から激しい暴力を伴うこの行為に必ずしも抵抗せず、暴力はさらに激しくなって、更に被害者を極寒の屋外に縛り付けたりしたため死に至ったものとみられる。彼らは暴力を総括を助ける行為として正当化するため「総括援助」という名を付けた。またこの総括援助による死には「敗北死」という名が付けられた。また、総括が期待できないと判断されたメンバー(どちらも幹部)には「死刑」を宣告され、凄惨な暴力の果てに殺害された。
第一章 三大規律
党員は綱領と規約を承認し、「党派斗争」を行う能力をもつ。
党員は自力で組織を建設する能力をもつ。
党員は技術を扱う能力をもち、政治警察に対し攻撃的に組織を防衛する。
第二章 六大原則
党は自立した革命家の集団××である。
指導、被指導は自立した革命家相互の分業関係である。
家族、財政は党に一元化される。×××よって行われる。
自由な討論の保障と行動は完全に指導によること。
党の財政を作る能力を持つこと。
党決定、規約に違反した場合、最高、死に到る処罰を受ける。
(中略)
(註:武器等を指す隠語と思われる)
彼女の開発・製造・運搬・保管は自力更生を原則とする。