近衞 文麿
(このえ ふみまろ)
第34・38・39 代
日本国 内閣総理大臣
在任期間第1次:
1937年6月4日
- 1939年1月4日
第2次‐第3次:
1940年7月22日
‐ 1941年10月16日
生年月日明治24年(1891年)10月12日
出生地東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)
出身校京都帝国大学
学位・資格・称号公爵
学士(京都帝国大学)
前職貴族院議長
世襲の有無貴族院華族議員
(家族・親族参照)
選挙区貴族院議員
当選回数
党派中間内閣
没年月日昭和20年(1945年)12月16日
近衞 文麿(このえ ふみまろ、明治24年(1891年)10月12日 - 昭和20年(1945年)12月16日)は、日本の政治家。第5代貴族院議長。第34、38、39代内閣総理大臣。
爵位は公爵であり、かつ五摂家筆頭である近衛家の当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。
目次
1 来歴・人物
1.1 生い立ち
1.2 政界へ
1.3 第一次内閣
1.4 新体制の模索
1.5 第二次内閣
1.6 第三次内閣
1.7 終戦工作
1.8 戦犯容疑
2 荻外荘
3 近衛一族
3.1 系譜
3.2 家族
4 系譜
5 文献
5.1 自著
5.2 評伝
5.3 その他
6 関連項目
7 注釈
8 外部リンク
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近衛文麿は1891年(明治24年)10月12日、公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍の間の長男として、東京市麹町区(現 千代田区)で生まれた。彼は皇別摂家の生まれであり、父系をさかのぼると天皇家に行き着く。しかし母は文麿が幼いときに病没、篤麿は衍の妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった[1]。
父の篤麿はアジア主義を唱え、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行っていた。ところが、1904年(明治37年)に、篤麿は41歳の若さで死去。文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。近衛の、どことなく陰がある反抗的な気質はこのころに形成された、と後に本人が述懐している。若かりし頃
この苦境を救ったのは、同じ公家出身の政治家・西園寺公望である。西園寺は、篤麿とは政敵とも言える状況にあったが、文麿の聡明さは高く評価して援助を惜しまなかった[2]。 後に第一次世界大戦後のパリ講和会議に日本全権として参加した際にも近衛を秘書として伴っている。こうして文麿は、父のアジア主義よりも、西園寺の欧米型自由主義に感化されることとなったが、自らの後継者を育てたいという西園寺の思惑とは裏腹に、文麿は次第に目先の新しいものに目移りする無定見さを見せ始めるようになる[3]。
学習院中等科を修了後、華族の師弟は学習院高等科にそのまま進学するのが通例だが、当時旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され、一高を受験して進学。