辜顕栄(こけんえい、1866年-1937年)、字は耀星、福建省恵安から移民した二世である。
1866年2月、清国福建省台湾道台湾府彰化県鹿港(現在の台湾彰化県鹿港鎮)に生まれる。父親の辜琴長は長く病床についており、辜顕栄の誕生後間もなく病没し、製麺を生業とする母親によって養育された。少年時代は清朝進士の黄玉書に師事し漢学を学んだ。その後は鹿港の一浪人として不遇な生活を送り、台北に流れ着いた。1895年、台湾民主国初代総統の唐景?が逃亡すると、辜顕栄は紳商の李春生、向其祥、呉文秀、李秉鈞、呉聯之等と共に日本軍の台北入城を画策し、これが元で後世「漢奸」と称されることとなった。
辜顕栄は台湾紳士を名乗り水野局長に従い東京を訪問、警察関係の有力者と面会し、勲六等を授与されるなど破格の待遇を受け、1896年に台北保良局局長に任命された。同時に日本側の塩及び樟脳の専売権を獲得、辜家の経済的繁栄の基礎を築いた。
1909年に台中庁参事に任命されるとアヘン販売の特権を獲得、1924年ごろには「公益会」を組織し、台湾議会設置請願と民権運動を日本政府と協力して抑圧した。1934年に日本の貴族院に勅撰議員として選出された。そして1937年に東京において貴族院の臨時議会に出席中に持病が悪化し急逝した。辜顕栄の棺は船便により台湾に移送され、高雄州屏東郡高樹庄(現在の屏東県高樹郷)の泰和農場に埋葬された。その子の辜振甫(実業家・海峡交流基金会理事長を歴任)は台中に農地6000甲、塩田350甲などの膨大な遺産を相続した。
経歴
1884年 上海、南京に於いて製糖業を経営する
1888年 「施九緞の乱平定に功績があり、五品軍功を獲得する
1892年 上海、寧波に渡り基隆向けの石炭の販売を開始。日清戦争では南洋大臣張之洞との石炭供給契約を締結
1895年 士紳の要請を受け、日本軍の台北入城を要請する
1896年 台北保良局長に任命される
1898年 台北土匪との関連が疑われ2ヶ月間拘禁される
1900年 全台官売塩商組合長に就任
1905年 日露戦争に所有船12隻を参加、海上警備に従事
1909年 台中庁参事に選出、アヘン販売の特権を受ける
1914年 台中煙草専員人に就任。林献堂等と台中中学(現在の台中一中)を創設
1918年 第一次世界大戦後にジャワ砂糖で巨額の利益を得る
1920年 大和製糖を創立
1921年 昭和製糖を合併、総督府評議員に任命される
1923年 総督府の支援を受け林熊徴等と「公益会」を設立。林献堂等が要求する台湾議会設置請願運動に反対する。
1934年 貴族院勅撰議員に任命される
1935年 中国にて蒋介石と面会。日華親善を提唱
1937年 東京に於いて病没
関連項目
台湾民主国
台湾総督府
貴族院 (日本)
カテゴリ: 日本統治時代の台湾の人物 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 1866年生 | 1937年没
更新日時:2008年7月11日(金)14:11
取得日時:2008/08/16 09:47