軽巡洋艦(けいじゅんようかん、Light Cruiser)は、軍艦の一種。防護巡洋艦の後継として登場した、火砲を主兵装とし、軽度な舷側装甲を施した比較的小型の巡洋艦をいう。「軽巡洋艦」とは「軽装甲巡洋艦」(Light Armoured Cruiser)の略であり、後に巡洋戦艦に発達した装甲巡洋艦と対置される。その名前から軽巡洋艦と対をなす重巡洋艦(Heavy Cruiser)は、第一次世界大戦後のロンドン海軍軍縮条約の結果として軽巡洋艦から派生したものである。
目次
1 歴史
1.1 軽装甲巡洋艦の登場
1.2 軍縮条約と軽巡洋艦
1.3 第二次世界大戦後
2 各国の軽巡洋艦
2.1 日本
2.2 イギリス
2.3 アメリカ
2.4 ドイツ
2.5 フランス
2.6 イタリア
2.7 ロシア帝国
2.8 ソ連
3 関連項目
4 参考文献
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艦船用機関の出力が乏しかった19世紀には、小型の戦闘艦に装甲を施すことは困難であり、装甲を備えた比較的大型の装甲巡洋艦と、舷側装甲の代わりに機関室の上の甲板を装甲して(防護甲板という)、舷側防御は石炭庫によって代用させる比較的小型の防護巡洋艦が別個に建造された。その後20世紀に入り、タービンや水管式ボイラーの発達、石油燃料の一般化などによって(1)機関の高出力化、(2)石炭庫による防御の非現実化という状況が発生したため、舷側に軽度の装甲を施した軍艦が防護巡洋艦に代わって登場する。これが軽装甲巡洋艦、すなわち軽巡洋艦である。
この定義に基づく艦はイギリスでは1910年に竣工したブリストル級、アメリカでは1908年に竣工したチェスター級偵察巡洋艦以降であるが、本格的な軽巡洋艦のスタイルを決定づけたのはイギリスのアリシューザ級(1914年竣工)である。アリシューザ級は常備排水量はわずか3,750トンに過ぎないが、水線部に最大3インチ(76mm)の装甲を施しており、石油専焼缶による蒸気タービン推進で28.5ノットの高速を発揮して「艦隊の目」としての地位を確立した。
巡洋艦の位置づけは第一次世界大戦後の軍縮条約によって大きく変化した。1921年のワシントン海軍軍縮条約は主力艦(戦艦および巡洋戦艦)の保有・建造の制限を主目的とし、巡洋艦を基準排水量10,000トン以下、主砲の口径を8インチ(203mm)以下のものと定義して保有制限の対象外に置いた。しかしこのことが巡洋艦に準主力艦としての地位を与える結果となり、今度は基準排水量10,000トン・主砲口径8インチの制限ぎりぎりの巡洋艦(条約型巡洋艦といわれる)の建艦競争が始まることとなった。
これをさらに制限しようとしたのが1930年のロンドン海軍軍縮条約である。ロンドン条約では、最高8インチ(203mm)の砲を備えている艦をカテゴリーA、6.1インチ(155mm)以下の砲を備えているものをカテゴリーBと定義した。以後、前者を重巡洋艦(Heavy Cruiser)、後者を軽巡洋艦(Light Cruiser)とする呼び方が一般的となった。どちらの場合もワシントン条約と同じく基準排水量の上限は10,000トンとされた。
重巡洋艦と軽巡洋艦の区別は軍縮条約に基づくものであるため、条約の失効以降は、単に主砲の口径の違いに過ぎなくなった。またその主砲の意義も航空戦力の発達にともなって相対的に低下した。第二次世界大戦後、誘導ミサイルの発達とともに、当時まだ大型だったミサイル装置のプラットフォームとして多くの重巡洋艦・軽巡洋艦が転用され、ミサイル巡洋艦となった。その後、新規に建造される巡洋艦のほとんどはミサイル巡洋艦となり、「軽」巡洋艦という艦種は自然消滅していった。
日本の軽巡洋艦は来るべき艦隊決戦の際に水雷戦隊を率いて戦うことを主目的とする点に特徴がある。大正期にいわゆる5500トン型が多数整備されたあと、第二次大戦期まで建造が途切れた。
特異な存在として潜水戦隊旗艦として計画された大淀、重巡洋艦の役割を持ちながら条約の制限により軽巡洋艦として計画された最上型、利根型がある。艦名はいずれも川の名である。
天龍型軽巡洋艦 2隻(1919年):1番艦の竣工年(以下同じ)
球磨型軽巡洋艦 5隻(1920年)
長良型軽巡洋艦 6隻(1922年)
川内型軽巡洋艦 3隻(1924年)
夕張(1923年)
阿賀野型軽巡洋艦 4隻(1942年)
大淀 (1943年)
最上型重巡洋艦 4隻(1935年):二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され、公式には最後までそのままだった。
利根型重巡洋艦 2隻(1938年):二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され、公式には最後までそのままだった。