軍部大臣現役武官制
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軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)とは、軍部大臣(陸軍大臣海軍大臣)の補任資格を現役の武官軍人)に限る制度。現役武官に限るため、予備役後備役退役の武官には、補任資格がない。文民統制の対義語として用いられることもある。
目次

1 概説

2 沿革

2.1 前史

2.2 創設

2.3 廃止

2.4 復活

2.5 消滅とその後


3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

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概説

軍部大臣現役武官制は、軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)の補任資格を現役の武官(軍人)に限る制度であるため、軍部大臣の補任資格を武官に限る軍部大臣武官制より資格者の範囲を更に狭めている。武官のうち、誰を現役とし、誰を現役から外して予備役・後備役・退役とするかについて決することは、軍部の専権とされた。このため、軍部大臣現役武官制を採用すると、内閣の成立・存続に関するイニシアチブが、軍部に執られやすくなる。この制度によって、軍部は希望する政策を実現しやすくなり、その政治的地位を確立した。

日本では、明治時代の初め、当時の軍部大臣に当たる兵部卿の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。その後、同様の規定は、中断したり復活したりしていたが、1900年(明治33年)に、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた政党に対して、軍部を権力の淵源としていた藩閥が、影響力を維持するために執った措置とされる。しかし、日露戦争後の国際状況の安定と政党政治の成熟により、藩閥と軍部の影響力は衰え、1913年大正2年)には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。再び軍部の影響力が強まった1936年昭和11年)に軍部大臣現役武官制は復活し、1945年(昭和20年)の終戦後、軍部大臣が消滅するまで続いた。

日本以外の国、特に西欧諸国においては、第二次世界大戦以前においても軍部大臣に文官を任用する例も多く、政治の軍事に対する優位を原則とするシビリアン・コントロールの理念が確立している。


沿革


前史

軍部大臣現役武官制は、1871年(明治4年)7月、兵部省職員令に「卿一人 本官少将以上」として、兵部卿には少将以上の者をあてると定めたことが起源とされる。その後、1886年(明治19年)2月27日に公布された各省官制(明治19年勅令第2号)では、次官以下の「陸軍省職員」、「海軍省職員」については、「武官ヲ以テ之ニ補ス」として、原則的に武官を任用すると定めたものの(陸軍2条、海軍2条、通則25条)、大臣については特に定めを置かなかった。

1890年(明治23年)3月27日には、陸軍官制および海軍官制を改正し、「職員」に武官を任用するとの原則規定を削除した。ただ、陸軍省官制では大臣に「将官」をあてると定め(別表)、海軍省官制では特に定めを置かなかった(別表参照)。翌1891年(明治24年)7月27日には、陸軍省官制を改正して、大臣および次官に「将官」をあてるとの定めを削除した(別表参照)。これにより、陸海軍省ともに、大臣を武官に限るとの定めをなくした。ただし、この時期においても現役将官以外が軍部大臣となった例はない。


創設

1900年(明治33年)、第2次山縣内閣は、陸軍省官制および海軍省官制を改正し、「大臣(大中将)」、「陸軍大臣及総務長官ニ任セラルルモノハ現役将官ヲ以テス」と定めた(附表、別表)[1]。これは、軍部を権力の淵源としていた藩閥勢力が、当時力を付けて来た議会政党勢力の軍事費削減攻勢に対する処置として執ったものである。これ以後、大命降下[2]があっても、軍部が現役武官の中から大臣候補を挙げなければ組閣できず、辞職して代わりの候補を出さなければ内閣を維持することもできない。この規定によって、軍部の意向を抜きに組閣し、内閣を維持することは難しくなった。

第2次西園寺内閣のとき、困窮を極めた国家財政再建を理由に、西園寺首相が陸軍からの「2個師団増設」の要求を渋った。このとき、上原勇作陸軍大臣が、単独で天皇に辞表を提出し、大臣職を辞してしまった。陸軍は後任の候補を出さず、軍部大臣現役武官制があるために、第2次西園寺内閣は陸軍大臣を欠き、結果として内閣は総辞職せざるを得なくなった。この政変は「陸軍のストライキ」と言われ、以降、国政において軍部大臣現役武官制が注目されるきっかけとなった。


廃止

1913年(大正2年)6月13日、第1次山本内閣において、陸軍省官制および海軍省官制を改正して、軍部大臣の補任資格を現役将官に限るとの規定を削除した(附表、別表)。この改正により、軍部大臣武官制は存続したものの、軍部大臣現役武官制は廃止された。これは、当時、一大国民運動となっていた第一次護憲運動の影響を受けて、山縣有朋・桂太郎らを中心とする軍部と藩閥の反対を押し切り、山本権兵衛首相と木越安綱陸相が断行したものである。この結果、日清戦争と日露戦争の軍歴により国民的人気の高かった木越は、中将のまま定年前に予備役に編入させられた。

なお、実際の運用では、予備役・後備役・退役の将官などから軍部大臣を任命した例はなく、一旦現役に復帰してから大臣に任命した。しかし、補任資格が予備役・後備役・退役の将官まで広がったことで、大臣候補の範囲も広がり、以後組閣時の苦労が激減した。もっとも、第1次山本内閣の後を受けて大命降下した清浦奎吾は、海軍拡張(八八艦隊の建造費用)について海軍と合意できず、海軍大臣候補が得られなかったため、組閣を断念している(鰻香内閣)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki