貴族
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貴族(きぞく)とは、血統や門地の故に社会的特権を認められている人やその一族。またはその身分。多くは世襲されるが、特別な功績により新たに貴族になることもある。君主の一族を特に「皇族」「王族」「公族」などと称し、これを貴族に含めない用語法もある。
目次

1 日本の貴族

1.1 古代

1.2 中世

1.3 近世

1.4 近代

1.5 脚注

1.6 参考文献

1.7 関連項目


2 古代ローマの貴族

3 中国の貴族

4 朝鮮の貴族

5 琉球の貴族

6 ヨーロッパ・ロシアの貴族

7 イスラム圏の貴族

8 インドの貴族

9 東南アジアの貴族

10 転語

11 関連項目

12 リンク

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日本の貴族

日本における貴族の歴史を概観すると、ヤマト王権期の豪族層に由来する古代貴族がまず形成された後、平安時代前期には従来の古代貴族に代わって藤原氏源氏が上流貴族層を占めていった。中世前期にこれらを母体とする公家層が形成された。公家層は中世後期以降、経済的実権と政治的実権を喪失しつつも、明治維新期まで存続した。一方、中世には、武士階級の最上位層(武家棟梁)が貴族化する動きを継続して見せており、近世に入ると家格の固定に伴って将軍家や大名層が武家貴族を形成した。明治維新期に至り、公家貴族と武家貴族を中心とする上流階級が華族へと移行したが、太平洋戦争での敗戦に伴い華族制度は廃止され、日本の貴族は消滅した。


古代

日本における貴族の登場は、7世紀後半から8世紀初頭の律令制成立期に求められる。このとき貴族の母体となったのは、豪族階層であった。7世紀以前の倭国(日本)では、ウヂと呼ばれる同族集団が形成されていたが、そのウヂ集団を統率する族長たちが豪族階層を構成していた。当時のヤマト政権は、ウヂ集団 = 豪族たちの連合政権としての性格も有していた。しかし、7世紀後半の天智・天武期以降、天皇(大王)への権力集中化が急速に進み、中央豪族らは官人として再編成されていった。

大宝元年(701年)に制定された大宝律令のもとで、旧来の豪族は位階に応じて序列化された。三位以上を「貴」、四・五位を「通貴」という。「貴」は貴人を意味し、「通貴」は貴人に通じる階層を意味した。これら「貴」「通貴」及びその一族を貴族と呼んでいる。「貴」と「通貴」とでは与えられた特権に著しい差があったため、「貴」は上流貴族、「通貴」は中流・下流貴族に位置づけられている。貴族は経済的特権として、国家から多大な収入が与えられていた。五位以上には位田、四・五位には位禄、三位以上には位封、さらに太政大臣・左右大臣・大納言に任官すると職田・職封が給与された。このほか、位分資人・職分資人なども与えられた。これらの収入は、三位以上と四・五位の間に大きな格差が設定されており、さらに大きな格差が五位以上と六位以下の間に設けられていた。また身分特権として、位階に応じて子孫が位階を得る蔭位制度があった。蔭位により、貴族は子孫へ各種特権を世襲することが容易となっていた。

日本の律令制の特徴は、貴族の合議機関である太政官が政治決定の枢要とされた点にある。唐律令では、天子直属の中書省と貴族代表の門下省とが政治決定の場において拮抗していたが、日本律令では天皇直属の中務省は太政官の下に置かれていた。これは、中国より日本の方が貴族の役割を重視していたことを表す。

太政官において国政審議に参与する貴族らを議政官(公卿)というが、律令制が開始した8世紀の代表的な議政官氏族を挙げると、安倍氏大伴氏藤原氏、多治比氏、紀氏巨勢氏石川氏らであった。慣例的に各ウヂから議政官となるのは1人だけとされており、議政官は氏族代表者会議としての性格を有していた。ところが、8世紀30年代ごろから藤原氏議政官が複数現れるようになると、藤原氏議政官が増加の一途をたどるのに対し、他氏族の議政官は次第に減少していった。

貴族社会全体でも、藤原氏の増加と他氏族の没落が見られた。こうした傾向に拍車がかかったのは、8世紀末-9世紀初頭の時期とされている。義江明子は、ウヂが持っていた在地性・両属性がこの時期に失われ、ウヂの再編が起こったとする[1]。宇根俊範は、桓武天皇は従来と異なる方針で諸氏族の改賜姓を行い、このため貴族社会における各氏族の序列が大きく変化し、源平藤橘を頂点とする新たな貴族社会秩序が生じたとする[2]

平安時代初期の議政官を見ると、藤原氏のほか、源氏橘氏清原氏菅原氏などのように、奈良時代には見られなかった氏族が急速に台頭していた。880年ごろには、議政官氏族の多様性が失われ、藤原氏・源氏が議政官のほとんどを占めるようになった。藤原氏は摂政関白の地位を獲得し、それを世襲することに成功した。以降、10世紀から11世紀にかけて、藤原氏嫡流(摂関家)は、天皇の外戚、すなわちミウチとして代々摂関となって貴族社会の頂点に位置し、10世紀から11世紀にかけて摂関政治と呼ばれる政治形態を布いた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki