豊臣氏
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「太閤桐」
(豊臣秀吉定紋)「五七桐」
(羽柴家)「木下日足」
(木下家)

豊臣氏(とよとみうじ/とよとみし、豐臣氏)は、「豊臣」の姓を下賜された氏族

豊臣姓とは、天正時代関白となって政権を掌握した羽柴秀吉に与えられた本姓である。

公卿の姓である源平藤橘(げんぺいとうきつ、源氏平氏藤原氏橘氏の総称)や菅原氏賀茂氏中原氏大江氏などに匹敵する新姓として、朝廷から秀吉へ豊臣朝臣という氏姓(本姓)が下賜された1586年に始まる。なお、「豊臣(とよとみ)」という姓は聖徳太子の名前「豊聡耳(とよとみみ)」から取られたという説がある[要出典]。また、井沢元彦は「逆説の日本史11戦国乱世編 - 朝鮮出兵と秀吉の謎」において、天皇にはなれない家臣だということを名前で秀吉へ知らしめるために「臣」という文字をあえて入れたという説を唱えている。

前述のように豊臣氏の「豊臣」は本姓であって、「織田」(本姓は平朝臣)や「徳川」(本姓は源朝臣)などといった名字とは性質が異なる。本姓による名乗りでは、姓との間に氏への所属を意味する「の」を入れて読むのが原則[要出典]なので[1]、この原則に従うと「豊臣秀吉」は「とよとみ・の・ひでよし」と読まれる。ただし、本姓による名乗りの場合でも卜部兼好(吉田兼好)の場合は「の」を入れないで読まれることが一般的であり[2]、名字による名乗りの場合でも渡辺綱那須与一のように「の」を入れて読まれる例もあることから、「豊臣秀吉」をはじめとする豊臣氏の人物の名前についてもこの原則が当てはまるのかは分かっていない。
秀吉および羽柴家の人物の名字は豊臣姓の下賜以降も「羽柴」のままであったと見られているが[要出典]、豊臣姓を下賜されてからは秀吉たち自身の名乗りとして「羽柴」を使う必要がなくなったらしく、使用された形跡は無い。[3]

凡下平民の出自でこれといった一門衆家臣団を持たない秀吉は、有力家臣である大名や全ての武家に任官の際に豊臣姓や羽柴の名字を与え、「羽柴(官職)豊臣朝臣某」(例・羽柴大納言豊臣朝臣家康)もしくは「某(官職)豊臣某」(例・片桐東市正豊臣且元)と名乗らせて自らの一族とみなし、自らは豊臣氏の氏長者となることで統治しようとした。この点で豊臣政権は、徳川や松平の名乗りがごく一握りの大名にしか許されなかった江戸幕府と好対照である。

のちに徳川家の覇権が確固たるものになっていく過程の中で、豊臣朝臣を与えられて羽柴氏を名乗ることを許されていた大名たちは、豊臣朝臣の本姓を捨てて「羽柴」を公称しないようになっていった。江戸時代を通じて豊臣朝臣を本姓とし続けた大名家は、秀吉の正室・高台院の実家である木下家だけである。明治維新後に本姓と名字が法的に一本化されて現在見られるのあり方に統合されていくまで、木下家は本姓を変えることがなかった。

日本史関係の書籍やテレビ番組などでは「大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡した」と説明されることが多いが、これは大坂城主の豊臣宗家のみを指して「豊臣家」と呼ぶことが一般的であるためであり、豊臣氏全体が滅亡したという誤解を生じさせかねない不正確な表現である。前述のように、実際には外戚の豊臣氏族(高台院側の血筋である木下家)が健在であったので、豊臣氏自体は江戸時代を通じて存続している。また高台院自身も晩年に養子をとり、彼を「羽柴利次」と名乗らせた。高台院没後は「羽柴」を称することが禁じられたため、木下利次と改名して高台院の遺領を継承した。
目次

1 氏族としての豊臣氏の歴史

2 系図

3 脚注

4 関連項目

5 外部リンク

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氏族としての豊臣氏の歴史

氏族としての豊臣氏は、羽柴秀吉の兄弟姉妹および彼らの子孫たちからなる一族であるといえる。すなわち、以下の人々である。

大政所(母)

木下弥右衛門(日秀・秀吉の父)

竹阿弥(秀長・朝日姫の父)


日秀(長女、秀吉の姉)

豊臣秀次(秀吉の養子)

豊臣仙千代丸(刑死)

豊臣百丸(刑死)

豊臣於十丸(刑死)

豊臣土丸(刑死)

一ノ姫(刑死)

隆精院(真田信繁側室)

お菊


豊臣秀勝(秀吉の養子)

豊臣完子九条幸家室)


豊臣秀保(秀長の養子)


豊臣秀吉(長男)

高台院(ねね、北政所)(長男の嫁)

豊臣鶴松(夭折)

豊臣秀頼

豊臣国松(斬首刑死)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki