豊田天功
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豊田 天功(とよだ てんこう、文化2年(1805年) - 文久4年1月21日1864年2月28日))は、幕末水戸学者である。水戸藩彰考館総裁。『大日本史』の完成に大きく貢献した。名は亮、幼名は丑松、のち彦次郎、号は松岡、晩翠。天功は字。
目次

1 生涯

2 年譜

3 著書

4 関連項目

5 参考文献

6 外部リンク

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生涯

庄屋豊田信卿の次男として、久慈郡坂之上村(現在の茨城県常陸太田市)に生まれる。幼年時より漢詩を誦すなど、早くからその才を広く知られ、14歳のとき、青藍舎に入門して藤田幽谷の門人となった。翌年、幽谷の子・藤田東湖とともに江戸に出て、亀田鵬斎・太田錦城に儒学を学び、岡田十松に剣術を学んだ。文政3年(1820年)に彰考館見習いとなり『大日本史』編纂事業に携わった。19歳のときに『禦虜対』を著したが、その名声は江戸彰考館まで広まったとされる。文政10年(1827年)、「不心得」との理由で郷里にて蟄居させられたが、盟友・藤田東湖の計らいで水戸藩主徳川斉昭に認められたという。

天保3年(1832年)に大門村(現在の茨城県常陸太田市)の黒羽資満の次女万と結婚し、翌天保4年(1833年)に『中興新書』を著して藩主徳川斉昭に上呈し、藩政改革の成否は人材登用にあると訴えた。天保12年(1841年)、再び彰考館に入って『大日本史』編纂事業に従事した。翌年、『仏事志』を著したが、わずか80日間で書き上げて注目された。ペリー来航後は、常に西洋諸国の脅威と警戒の重要性を説き、斉昭の攘夷論海防論に学者としての知的裏付けをした。安政3年(1856年)、彰考館総裁に就任し、『大日本史』の志・表の編纂を主宰した。「食貨志」「兵志」「刑法志」を脱稿したが、完成を見ないまま病没した。


年譜

1805年 久慈郡坂之上村(現在の茨城県常陸太田市)に生まれる。

1818年 青藍舎に入門して藤田幽谷の門人となる。

1819年 藤田東湖とともに江戸に出る。

1820年 彰考館見習いとなる。

1827年 蟄居させられる。

1832年 万と結婚とする。

1833年 『中興新書』を著す。

1841年 再び彰考館に入る。

1842年 『仏事志』を著す。

1856年 彰考館総裁となる。

1864年 病没。享年60歳。


著書

『禦虜対』

『中興新書』

『仏事志』

『防海新策』

『北島志』


関連項目

豊田香窓

幕末の人物一覧

常磐共有墓地


参考文献

茨城新聞社編 『茨城県大百科事典』 茨城新聞社、1981年、782頁。


外部リンク

豊田天功(輝く茨城の先人たち)
カテゴリ: 日本の儒学者 | 水戸学 | 幕末の人物 | 1805年生 | 1864年没

更新日時:2008年7月7日(月)19:08
取得日時:2008/09/21 00:08


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki