豊島氏(としまし)は、南武蔵(主に現代の東京都周辺)に勢力を持っていた武家。平姓秩父氏の一族で、武蔵国豊嶋郡から発展し平安時代から室町時代にかけて国人系領主として存続した。豊嶋氏とも記される。
鎌倉時代に分かれた支流に安土桃山時代まで陸奥国で大きな勢力を持った葛西氏がいる。
豊島氏は紀伊国から熊野権現を勧請し、郡内に多くの熊野神社を設けた。その最大のものが王子神社である。
目次
1 発祥・平安時代
2 鎌倉時代
3 南北朝時代
4 室町時代
5 戦国時代・江戸時代
6 庶流
7 系譜
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
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桓武天皇の孫の高望王が臣籍降下して平姓を賜り関東に土着した。その子平良文の孫の平将常(将恒とも)は武蔵権守となって武蔵国秩父郡中村郷(埼玉県秩父市)に土着して秩父氏を称し秩父将常(将恒とも)となった。秩父氏は三浦氏、千葉氏、鎌倉氏、大掾氏などに並ぶ坂東八平氏に数えられる大きな勢力を張った。
秩父氏からは畠山氏、稲毛氏、河越氏、江戸氏などの多くの氏族が武蔵国各地に進出して秩父党と呼ばれる武士団を形成した。
秩父常将の次男秩父武常は治安3年(1023年)に武蔵介藤原真枝を討った功により、武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜り、この頃に豊島氏または葛西氏を称したと考えられている。一方で、近年の研究では二代あとの秩父康家が豊島氏の初代ではないかとも考えられている。
現在の東京都北区豊島町が豊島氏発祥の地とされる。北区の平塚神社が豊島舘跡と伝わり、豊島氏初期の事績を綴った『平塚神社縁起絵巻』が残っている。
平忠常の乱以来、清和源氏の一流、源頼信の系統(河内源氏)が関東へ進出して坂東八平氏は源氏の家人となっていた。武常も源頼義・義家に従って前九年の役(または後三年の役)で奥州で戦って戦死している。保元の乱での源義朝の配下で武名をあげた武士に「豊島四郎」(俊経)の名がみえる。
源義朝が平治の乱で敗れて、平氏政権が成立し、源氏はまったく逼塞したが、治承4年(1180年)に伊豆国へ流されていた源頼朝が挙兵。頼朝は石橋山の戦いで敗れるが安房国で再挙し、豊島清元(清光)とその子の清重父子がこれに参じた。豊島氏は関東平定の戦いに従軍して鎌倉殿の御家人の列に加わる。
清元の三男の清重は葛西御厨を継いで葛西三郎を称して葛西氏の祖となった。清重は源範頼に従って九州まで渡って平氏追討で武功をあげた。奥州藤原氏征伐(奥州合戦)で清重は活躍して、平定後に奥州総奉行に任ぜられた。以後、葛西氏は奥州での大族となる。
関東では有経(清元の長男?)の系統が豊島氏を継承し、元暦元年(1184年)に紀伊守護人に任ぜられている。
建久元年(1190年)に頼朝が初めて上洛した際にはその供奉に多くの豊島氏の一族の名がみられる。
有経の子の朝経(江戸時代の系図では父)は建仁元年(1201年)に土佐守護に任じられた。朝経は建仁3年(1203年)に比叡山の僧兵と戦って戦死している。
承久の乱(1221年)でも豊島氏は幕府軍に加わって活躍し、「豊島九郎小太郎」「豊島十郎」の名が見える。
朝経の子の時光のときに禁令を破って土地を賭けた博打をしたことを幕府から咎められて、仁治2年(1241年)に所領の豊島郡犬喰名を没収された。
元弘2年(1332年)に楠木正成が金剛山で挙兵すると幕府は10万の大軍でこれを包囲し、豊島一族もこれに加わっている。