谷川浩司
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谷川 浩司(たにがわ こうじ、1962年4月6日 - )は、兵庫県神戸市須磨区出身の将棋棋士。棋士番号131。十七世名人資格者。若松政和七段門下。タイトル獲得数歴代4位
目次

1 戦績

1.1 中学生棋士・史上最年少名人

1.2 四冠王へ

1.3 羽生との激闘、そして屈辱

1.4 不死鳥のごとく

1.5 永世名人資格獲得以降


2 棋風

3 光速の寄せ

4 エピソード・人物

5 昇段履歴

6 主な成績

6.1 在籍クラス

6.2 獲得タイトル(獲得数歴代4位)

6.3 一般棋戦の優勝歴

6.4 将棋大賞

6.5 記録(歴代1位のもの)


7 著書

8 関連項目

9 外部リンク

10 脚注

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戦績

史上最年少名人になった頃、中原誠の後継者と目された。やがて宿敵・羽生善治が登場してくることになる。羽生との150局(現役棋士同士では最多)を超える火花散るがごとく華麗な戦いは、ゴールデンカードとして将棋ファンを魅了する。


中学生棋士・史上最年少名人

中学2年だった、1976年12月20日に四段昇段を決めてプロデビューし、加藤一二三以来、史上2人目の「中学生棋士」となる。プロ将棋史上、中学2年でプロ入りした棋士は谷川のみである。


名人戦の予選である順位戦において、C級2組からC級1組への昇級に2年かかったことだけを除けば、毎年順調に1期抜けの昇級を重ねて、4年連続昇級。1982年4月1日付けでA級八段となる。なお、1982年度は、オールスター勝ち抜き戦で6連勝(5連勝以上は優勝扱い)をしており、これが棋戦初優勝となる。


初参加の1982年度A級順位戦でも快進撃を続け、いきなり7勝2敗のトップタイの成績で中原誠とのプレーオフとなり、勝利。加藤一二三名人への挑戦を決める(タイトル戦への初登場)。


加藤乗りの評判が高い中で戦った名人戦七番勝負であったが、谷川の3勝2敗で迎えた第6局(1983年6月14?15日)、加藤を破り、初のタイトルとなる名人位を獲得。史上最年少名人(21歳)[1]として谷川ブームを巻き起こした。タイトル獲得での会見で「1年間、名人位を預からせていただきます」と語ったのは、奢ることのない謙虚な発言として話題となった。


同年(1983年度)、第2回全日本プロ将棋トーナメントで初優勝。同棋戦とは相性が良く、通算7回優勝(終了棋戦であるため優勝回数歴代1位が確定している)。


1984年度、森安秀光の挑戦を4-1で退けて名人位を初防衛する。この際「これで弱い名人から、並みの名人になれたと思います。」と述べている。なお、同年度の棋聖戦(前期)で米長邦雄に挑戦し、名人戦以外のタイトル戦に初登場しているが、0-3で敗退。


四冠王へ

1985年度は中原が挑戦者に名乗りを上げ、ついに中原との名人戦が実現するが、2-4で敗れる。しかしながら、全日本プロを3連覇、棋王桐山清澄から奪取、NHK杯優勝、初の最多勝利(56勝)、王座戦挑戦(中原に1-3で敗退)などの活躍により、将棋大賞の最優秀棋士賞を初受賞する。


1986?1987年度の3つのタイトル戦は、高橋道雄との戦いとなる。1986年度に棋王を高橋に奪われ、無冠[2]となったものの、1987年[3]に、王位、棋王ともに奪取して、自身初の二冠となる。


1988年度、名人戦で中原に挑戦して、4-2で勝利。念願の「中原を倒しての名人位獲得」が実現するとともに、この時点で初の三冠となる。この際「中原名人の下座に座り、名人を取るのが夢でした。」と述べている。しかし、他の防衛戦では、王位で森?二に、棋王で南芳一に敗れている。


1989年度、米長の挑戦を4-0のストレートで退けて名人位を防衛、さらに王位を森から奪還して二冠に復帰する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki