諱(いみな)は、中国などの東アジアの漢字圏における人名の一要素である。
諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞であるが、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、人の本名(名)のことを指すようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。
目次
1 実名敬避俗(じつめいけいひぞく)
2 日本
2.1 日本の諱
2.2 仮名(通称)
2.3 通字
2.4 偏諱授与の風習
2.5 諱と通称との区別の消滅
3 関連項目
4 参考文献
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諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。このような慣習は「実名敬避俗」と呼ばれ、世界各地で行われた。実名敬避俗の発想から貴人の諱を忌み避けることを「避諱」という。特に天子(皇帝)の諱は厳重に避けられ、詔勅以下の公文書にも一切使われず、同じ字を使った臣下や地名・官職名は改名させられたり、漢字の末画を欠かせるなどのあらゆる手段を用いて使われないようにした。例えば、漢の初代皇帝劉邦の諱は邦であったため、漢代には「邦」の字は全く使用できなくなり、以後「国」の字を使うことが一般化した。
避諱の実際は時代によって異なるが、多くは、王朝の初代、現皇帝から八代前までさかのぼる歴代の皇帝の諱を避けた。また、皇帝のほか、自分の親の名も避諱の対象となった(例えば、杜甫はたくさんの詩を残したが、父の名である「閑」という字はすべての作品で使用しなかった)。詳しくは避諱の項を参照。
日本にはこうした例はほとんど見られないが、中国の影響が大きかった桓武天皇の時代に編纂された正史『続日本紀』において、天皇の父である光仁天皇の即位前の記事に関しては、諱である「白壁王」という表記を避けて(大納言)「諱」と記載されている。
日本では個人の名前は「石川麻呂(いしかわまろ)」や「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」といったふうに長い訓に漢字を当ててきたが、嵯峨天皇のころ遣唐使であった菅原清公の進言によって、男子の名前は漢字で二文字か一字、女子の名前は「○子」とするといった、漢風の名前の使用が進められ、定着した。
このように、中国の伝統を取り入れた名前の習慣が定着すると、中国と同様に目上の者を実名で呼ぶのを避ける習慣にのっとり、実名のことを漢文表記するときは諱と呼んだ。これは中国と同様に実名と霊的人格が結びついているという宗教的思想に基く。そのため、武士は主従関係を取り結ぶときに主君と見定めた人物に自分の名を書いた名簿(みょうぶ)を提出するしきたりがあり、また、親子関係、夫婦関係以外の社会的主従関係に乏しかった女性では、公的に活躍した人物ですら、後世実名が不明となる場合が多かった。清少納言や紫式部の実名が不明なのはこのためである(少納言・式部、共に父親の官職名である)。
また、僧侶が受戒するときに受ける法名のことを仏弟子として新たに身につける真の名前として諱(厳密には法諱)といい、禅僧などは中国の例にならって号・字などと呼ばれるものを諱と別にもった。
後には、僧侶の受戒が、俗人の葬式で死者に授戒し戒名として諱を与える儀礼として取り入れられた。このため、現在では諱は諡と混同され、現代日本語ではしばしばほとんど同義に使われることもある。
日本では諱を口に出して呼ぶことは特に避けられ、貴人を居住する邸宅の所在地名や官職名などに基づいてつけられた通称を使って呼ぶことが通例だった。また、無位無官のものについては太郎、次郎など仮名をもって日常的な通名として使用していた。平安時代中頃以降には武士などの多くの人々も、諱とは別に通称を持ち、普段は通称で呼ばれるようになるが、これを漢文表記する場合は中国の例になぞらえて名を諱(いみな)、通称を字(あざな)と呼ぶ。例えば武田信玄は、武田が名字、太郎が通称(字)、源が氏、朝臣が姓、晴信が諱であって、信玄は出家後に名乗った法諱である。正式には武田太郎源朝臣晴信となる。なお、室町時代以降、仮名については、官職風の人名として百官名、さらには東百官のようなものも派生するようになり、諱と仮名の区別が法的に廃止される明治時代まで通称として用いられていた。
中国や朝鮮半島と日本における諱の習慣が大きく異なるのは、諱を表記する漢字に関するタブーである。日本では漢字の呪術性は中国における観念とは違う形で受容されたためか、「ある人物の諱に用いられているものと同一の漢字を用いることそのものがその人物の霊的人格に対する侵害だ」とする観念は、日本では中国や朝鮮半島ほど激しくはなかった。
そのため、平安時代中期、漢字二字からなる名が一般的になってから後の日本では、「通字」、あるいは「系字」といい家に代々継承され、先祖代々、特定の文字を諱に入れる習慣があった。典型的な例として、平安後期から現在に至るまで天皇家の男子の大半に用いられている「仁」の字が挙げられ、臣下の家でも桓武平氏貞盛流の「盛」、清和源氏頼信流の「義」及び「頼」、北条氏の「時」または「氏」、島津氏の「忠」及び「久」、徳川将軍家の「家」など、類例の枚挙にいとまがないほどである。このような「通字」・「系字」の文化は、先祖の名を避ける中国の避諱とは全く対照的な、日本独特の風習である。ちなみに、日本では活躍した祖先の事績にあやかり、祖先の諱を称する場合もあり、これを先祖返りといった。例として、朝倉孝景、伊達政宗、吉川元春などが挙げられる。