諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は、「贈り名」を意味する。
目次
1 概説
2 中国の諡号
2.1 帝王(中国)の諡号
2.1.1 后妃の諡号
2.2 爵諡
3 日本の諡号
3.1 和風諡号
3.1.1 和風諡号はいつから始まったか?
3.2 漢風諡号
3.2.1 漢風諡号制度の導入
3.2.2 漢風諡号制度の衰微と廃絶
3.2.3 諡号の復活と追諡
3.3 追号
3.4 后・妃の諡号
3.5 臣下の諡
3.6 僧侶の諡
4 注釈
5 関連項目
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国家が与える公の諡と、個人が付ける私諡に分けられるが、一般にいう諡は前者の方である。日本の仏教徒の戒名は受戒し仏弟子となり、世俗生活の俗名を離脱するためにつけるものであり、本来は生前に付け、時に追善のため臨終ないし死後につけたものであるが、「臨終ないし死後」に贈られることが一般化した結果、実質的な「忌み名」として用いられている。「忌み名」も私諡の一種であり、そこから諡一般のことを諱(いみな)と言う場合もあるが、諱とは本来は個人の通称である字(あざな)に対する本名を意味し、本人に対する敬意として口に出すことを憚る名、のことで、本義は諡とは異なる。
諡号を奉るという事については、王権継承から着目し、即位を正統化する儀式であることに本来の意義がある。
立諡制度の起源は中国の周代中期(紀元前9世紀頃)といわれ、天子のみならず、諸侯・卿大夫・高官・名儒等に贈られ、時代が下って高僧も対象となった。
初期の諡号には褒貶の義は無かったようだが、次第に生前の行跡に照らして追号されるようになった。中国の戦国時代に成立した『逸周書・諡法解』は諡法について定めた最初の書であり、長く諡号選定の準拠とされた。
諡字は概ね、その意味を以って上(美諡)・中(平諡)・下(悪諡)に分けられる。「神」「聖」「賢」「文」「武」「成」「康」「献」「懿」「元」「章」「壮」「景」「宣」「明」「昭」「正」「敬」「恭」「荘」「粛」「穆」「烈」「桓」「威」「貞」「節」「靖」「真」「順」「顕」「和」「高」「光」「英」「睿」「憲」「孝」「忠」「恵」「徳」「仁」「智」「慎」「礼」「義」「敏」「信」「清」「良」「謙」「純」「哲」等、死者への褒揚がこめられた字が名君賢臣に与えられた。これに対し、「野」「戻」「氏v「昏」「煬」「幽」「夷」等は悪諡として暴君奸臣に賜る事になっている。
立諡制度は、死後に子や臣下によって批判されることにあたり不敬であるという理由で秦の始皇帝によって一時廃止されながらも、西漢以降中国の歴代王朝に踏襲され、日本には少なくとも天平宝字六年(762年)以前に、律令政治の成立と前後して輸入された。
なお、厳密には「諡」といえば、諡された字のみを指す。例えば、「順平侯」というのは「諡号」であり、「諡」という場合は「順平」を指す。
秦の始皇帝は「臣が君主の死後君主の業績を評価をすべきではない。始皇帝、二世皇帝、三世皇帝...万世皇帝と自動的に決めるようにせよ」という意志を持ち、短時期ながら諡法を廃止した。しかし前漢の皇帝たちはこれを復活させ、さらに2通りの帝王諡号を制定した。文帝・武帝・明帝・元帝などの帝号と、高祖・太宗・世宗・宣宗などの廟号がある訳である。一般に言うと、隋以前は帝号を以って帝王の尊称としたが、唐宋以後は多く廟号を用いるようになった(帝号も無くなったわけではないが、唐の太宗の「文武大聖大広孝皇帝」のように長くなる傾向があり、呼びにくいので通常にはあまり用いられなくなった)。
ほとんどの君主はこの両種類の諡を持っているが、例外として、廃帝や末帝には廟号が上られなかった。廟号を得るとは太廟(皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味し、崇めるに足りなかった廃帝にそのような待遇はされなかったし、皇朝の末代を宗族でもない新王朝の皇帝が廟に祀る訳にはいかなかった(また皇族でなくなった遺族は太廟で祭祀を行うことはできない)のである。その代わり、後者については新王朝から美諡を贈られることも少なくなかった。
一族の祖、王朝の初代や再興を遂げた皇帝には「某祖」、その他の皇帝たちで特に称揚される者には「某宗」の廟号が奉られた。例えば、前漢の高帝劉邦は初代皇帝なので廟号を「太祖」(太祖高皇帝の略で史記以来「高祖」と一般に呼ばれる)、漢の再興を果たした後漢の光武帝は廟号を「世祖」とされ、それ以外の漢代の皇帝には「某宗」という廟号を贈られた者がいた。清の初代ヌルハチは太祖高皇帝、初めて中原を支配した第3代順治帝は世祖章皇帝、その子で賢君の誉れ高かった康熙帝は聖祖仁皇帝とされ、稀に見る一代三祖となっている。ちなみに、日本でも教育勅語や玉音放送の中で「皇祖皇宗(初代と言われる神武天皇から続く万世一系の天皇家という意味か)」という定型の表現を用いている。
帝王の諡字選定の原則も、臣下のそれと同様であったはずだが、唐宋以降、よほどの暴君でもない限り悪諡は避けられた。遊楽に耽けて危うく国を傾けそうになった宋の徽宗(実際に亡国)、明の武宗なども美諡を得た所以である。その一方で、後継者の都合によって「暴君」もしくは不適格とされた君主は死後、庶人として待遇されたり(例:魏の高貴郷公、南斉の東昏侯、金の海陵王ほか)、在位そのものが否定される場合(前漢の少帝弘、唐の少帝重茂、明の建文帝ほか)があった。