言問橋(ことといばし)は、隅田川にかかる橋で、国道6号・東京都道319号環状三号線(言問通り)を通す。西岸は台東区花川戸二丁目と浅草七丁目を分かち、東岸は墨田区向島一丁目と二丁目を分かつ。もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。
目次
1 建設の経緯
2 言問の由来
3 その他
4 橋の概要
5 隣の橋
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
//
関東大震災の震災復興事業として計画された橋。両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋である。川端康成は著書『浅草紅団』(先進社、1930年)[1]の中で、その直線的で力強いデザインを曲線的で優美な清洲橋と対比させ、「隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ」と語っている。
「言問」という名称は在原業平の詠んだ、
名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
という歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため、多くの説がある。
有力な説としては、1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の際には、浅草方面の人が「川の向こうに行けば助かる」と思い言問橋を渡ろうとしたが、反対の岸にいる住民も同じ事を考えており、橋の上で合流してしまい、身動きが取れなくなったところで橋の上にも炎が走り、耐えかねた人々は次々と欄干から身を躍らせ、死体で埋まった隅田川に落ちていったという。空襲が終わったあと、隅田川は一面死体が浮き、言問橋の上にも河川敷にも積み重なった累々たる死体の山が築かれていた。
1992年(平成4年)から実施された改修工事で切り出された欄干の基部の縁石(色が黒ずんで変色している)が隅田公園に展示されている。ただし、橋の親柱は、一部未改修のため現在も東京大空襲で焼け出された人の脂の黒ズミが残っている。
2008年(平成20年)3月28日、両国橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。
橋の概要
構造形式 三径間ゲルバー鈑桁橋
橋長 238.7m
幅員 22.0m
着工 大正14年5月
竣工 昭和3年2月10日
施工主体 東京市復興局
橋桁製作 横河橋梁製作所
(上流)?白鬚橋?桜橋?言問橋?東武鉄道伊勢崎線隅田川橋梁?吾妻橋?(下流)
脚注^ もとは1929年?30年に東京朝日新聞に連載されたもの。現在の「川端康成全集」(新潮社)では第2巻に収録。
関連項目
東京都の橋一覧
外部リンク
⇒言問橋全架橋写真( ⇒土木学会付属土木図書館 ⇒デジタルアーカイブスより)
表・話・編・歴隅田川の橋
隅田川
(荒川)―岩淵水門橋―新神谷橋―新田橋―新豊橋―豊島橋―首都高速道路中央環状線隅田川橋梁―小台橋―尾久橋―東京都交通局日暮里・舎人ライナー隅田川橋梁―尾竹橋―上水千住水管橋―京成電鉄隅田川橋梁―東京電力隅田川送電橋―千住水管橋―千住大橋―JR常磐線隅田川橋梁―つくばエクスプレス隅田川橋梁―日比谷線隅田川橋梁―千住汐入大橋―水神大橋―白鬚橋―桜橋―東武花川戸鉄道橋―言問橋―吾妻橋―駒形橋―厩橋―蔵前橋―NTT蔵前専用橋―JR総武線隅田川橋梁―両国橋―新大橋―清洲橋―隅田川大橋―永代橋―中央大橋―佃大橋―勝鬨橋―(河口)