親魏倭王
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親魏倭王(しんぎわおう)とは、『三国志』東夷伝倭人条(「魏志倭人伝」)に記されたの皇帝より、邪馬台国の女王・卑弥呼に与えられた封号のこと。
目次

1 朝貢ルートの閉塞

2 朝貢ルートの再開

3 印綬の授与と返上

4 参考文献

5 関連項目

6 注釈

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朝貢ルートの閉塞

後漢末期より三国時代初期にかけて、遼東郡から朝鮮半島北部にかけて遼東公孫氏が事実上の独立政権を打ち立てていた。このため、や朝鮮半島南部()などのいわゆる「東夷」と呼ばれた諸民族の朝貢ルートが閉ざされていたと考えられている。なおこの期間、倭・韓が建安9年(204年)に公孫氏が独断で設置した帯方郡の支配下にあったことが記されている(『三国志』魏書東夷伝韓条)。「倭国大乱」という倭国内部の事情もあるものの、他の東方諸国と中国王朝との交流途絶の事態を考えると、公孫氏の影響は軽視できない。


朝貢ルートの再開

『三国志』魏志公孫淵伝によれば景初2年8月23日(238年)に公孫淵司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡帯方郡を占拠すると、邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って[1]魏との交流が再開された(なお、と倭との交流については存在した可能性もあるが、『三国志』が魏を正統王朝として呉やへの朝貢記事及びそれを行っていた諸民族(特に南方諸国)の記事がほとんど載せられていないため、不詳である)。

これに対して魏の皇帝は[2]制書を発して卑弥呼に下賜品を与えるとともに「親魏倭王」に任じてその証である金印を与えたのである。「魏志倭人伝」には制書の冒頭に掲げられる「制詔(官名)(人名)」の定型の冒頭文から省略なしに記載されており、魏志倭人伝でも原史料を基にしたもっとも正確な記述と推定されている。

もっとも、魏の国内の諸王にはこれより上の書式である冊書をもって任じられたこと、また大月氏国などそれ以前より通交していた西方諸国のように制書文面に卑弥呼(倭王)に魏の高官の官位(勿論、実態としての価値はない)を与える趣旨の文が記載されてはいないことから、「親魏倭王」という称号は邪馬台国が魏の力を背景にその威信を示すだけの価値は存在したものの、魏における倭(邪馬台国)の価値は西方の国々のそれと比べて、それほど高くなかったと見られている。


印綬の授与と返上

なお、江戸時代の文献学者である藤貞幹が、明代に出された『宣和集古印史』に「親魏倭王」の印影を発見したとしてこれを引用し、また現在でも卑弥呼の墓とともに「親魏倭王」の金印が眠っている筈であり、発見できれば邪馬台国の所在地を確定する決定的証拠になるという説があるが、前者については元の本が偽書であることが判明しており実物ではないし、後説についても「親魏倭王」の金印が卑弥呼個人ではなく倭王に対して下賜であるために考えにくい。

そもそも、中国では王朝交代時には諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬を返上を求め、その替わりに新王朝の印綬を与える慣例となっていた(前漢からへの王朝交代の際に印綬の交換を巡ってトラブルが生じて匈奴などの離反を招いている)。卑弥呼の後継者とされる壱与西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行っており、これは王朝交代に伴うものと考えられていることから、「親魏倭王」の金印はこの時に回収された可能性が高いと見られている(なお、壱与にも他国の関連史料より「親晋倭王」などの替わりとなる称号と印綬が贈られたものと推測されるがその事実関係を示す史料は現存していない)。


参考文献

大庭脩『古代中世における日中関係史の研究』(同朋社出版、1996年) ISBN 4810422690


関連項目

魏志倭人伝

邪馬台国


注釈^ >魏志倭人伝では景初2年6月とする。このため、姚思廉は『梁書』で景初3年とし、『日本書紀』では神功皇后39年に干支年の太歳己未と分注に明帝景初3年6月とする。
^ 魏志倭人伝では景初2年12月とする。その場合は皇帝は明帝。なお景初3年説の場合皇帝は曹芳
カテゴリ: 君主号 | 弥生時代 | 倭人伝

更新日時:2008年5月17日(土)16:16
取得日時:2008/08/28 07:04


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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