西野朗
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西野 朗
名前
カタカナニシノ アキラ
ラテン文字NISHINO Akira
基本情報
国籍 日本
生年月日1955年4月7日(53歳)
出身地埼玉県さいたま市
身長182cm
体重74kg
血液型A型
選手情報
ポジションMF
代表歴
1977-1978 日本12 (1)



Template(ノート 解説)サッカー選手pj

西野 朗(にしの あきら、1955年4月7日 - )は、日本の元サッカー選手、現J1ガンバ大阪監督2002年 - )。埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身。埼玉県立浦和西高等学校を経て1978年に早稲田大学教育学部卒業
目次

1 来歴

1.1 選手として

1.2 監督として


2 所属クラブ

3 個人成績

4 代表歴

4.1 出場大会など

4.2 試合数


5 指導歴

5.1 監督成績


6 CM出演

7 関連項目

//


来歴


選手として

現役時代は主に攻撃的ミッドフィルダーとして活躍。早稲田大学在学中から日本代表に選出された期待の逸材であったが、1978年日立製作所に入社以降はプレーに精彩を欠き伸び悩む。その後、復活を果たし1985年に日本リーグタイ記録の8試合連続得点をあげベストイレブンにも選出された。また、晩年にはスイーパーを務める事もあった。選手としての西野は天才肌のMFである一方で淡白な部分があり、日立入社初年の1978年を最後に日本代表には呼ばれていない。


監督として

1990年に現役引退後は指導者に転向。1994年に、アトランタオリンピック本大会出場を目指すオリンピック日本代表監督に就任。28年ぶりとなる本大会出場、本大会での対ブラジル代表戦での勝利(マイアミの奇跡)で名を挙げるも後に、中田英寿前園真聖らと戦術をめぐり激しく対立し予選リーグ敗退に終わる。

1998年に日立製作所を前身とする“古巣”柏レイソルの監督に就任し、1999年にはナビスコ優勝に導いた。2000年はタイトルこそ獲得出来なかったが、セカンドステージは鹿島アントラーズと最後まで優勝争いを繰り広げ、2位というクラブ史上最高の順位をおさめた。しかし、2001年のファーストステージは前年とは逆に6位に終わり、ファーストステージ終了後に解任される。2002年からガンバ大阪を指揮。Jリーグ開幕以降タイトルと無縁だったクラブに初タイトルをもたらした。

かつては長身ストライカーを中心としたシステムを多く使っていたが、本質的にはシステムに選手を当てはめるのではなく選手によってシステムを組み立てるタイプの監督であり、そのため選手の入れ替わりによって採用する戦術が大きく変化する。試合後の会見等では「タフ」という単語を多用するのが特徴。

前述の通り中田や前園らと戦術面で対立する等、起用法等から度々選手との確執を生んでしまう事でも有名である。特にガンバ大阪の監督に就任した後は都築龍太(現・浦和)、新井場徹(現・鹿島)、吉原宏太(現・大宮)、フェルナンジーニョ(現・京都)といった主力格の選手達と関係を拗らせた結果、他クラブへ移籍されてしまう。一部のガンバサポーターからは批判の声は大きく、成績を上げているにも関わらず根強い不信感を持つ者もいる。[要出典]

采配としてはメンバーを固定する傾向にあり、チームが流れに乗ってる時は非常にいいのだが一度悪くなると、交代の幅、固定による控えの経験不足により一気に落ちてしまう傾向があるなど、リカバリー能力には問題があると見られている。

しかしその一方で、柏時代に明神智和北嶋秀朗を、ガンバ監督就任当初から二川孝広橋本英郎など、当時まだ若手選手の部類だった選手の能力を高く評価して起用して育て、大黒将志(現・東京ヴェルディ)を我慢強く使い屈指のストライカーにする等、日本代表や日本代表候補に招集されるまでの選手にするなど、育成面では数々の実績を残している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki