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西山事件(にしやまじけん)とは1972年に沖縄返還協定を巡って外務省の機密文書漏洩の疑いで、毎日新聞東京本社編集局政治部の外務省担当記者・西山太吉と外務省の外務審議官宛の文書の授受及び保管の職務を担当していた女性事務官が逮捕された事件。国家公務員法違反被告事件、外務省秘密漏洩事件、西山記者事件とも言う。
最高裁まで争われた結果、裁判所は「情を通じた」ことが通常の取材手段を逸脱するので、報道の自由は認められないと、被告2人とも執行猶予つきの懲役刑が確定した(最高裁 昭和51年5月31日)[1]。
2005年に米公文書で密約が裏付けられた後も日本政府の否定発言などで名誉が傷つけられているとして、国に謝罪と慰謝料を求めた西山太吉国賠訴訟が提起されたが一審東京地裁(2007年3月27日)、控訴審東京高裁(2008年2月20日)ともに各行為時から既に20年以上が経過しており民法の除斥期間を適用され、原告の請求は棄却された[2]。 2008年9月2日、最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は、原告の上告を退け、一、二審判決が確定した[3]。
目次
1 事件の経過
2 事件のその後
3 事件の影響
4 総評
5 事件を題材とした作品
6 脚注
7 外部リンク
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1971(昭和46)年5月18日、西山記者がそれまで特に親しい間柄ではなかった知人の外務省審議官付の女性事務官を飲食に誘い出した。この時西山は女性事務官と飲酒の上、半ば強引に肉体関係を結んだ直後、「取材に困っている、助けると思って安川審議官のところに来る書類を見せてくれ。君や外務省には絶対迷惑をかけない。特に沖縄関係の秘密文書を頼む。」と言う趣旨の依頼をして懇願し、女性事務官が一応はこれを承諾したのに対し、西山はその後電話で同様の趣旨をさらに念押しした。その後も肉体関係を続けていくうちに「5月28日愛知外務大臣とマイヤー大使とが請求権問題で会談するので、その関係書類を持ち出してもらいたい。」と西山の要求は具体的なものになった。一方、女性事務官は西山との肉体関係により西山の依頼を拒み難い心理状態に陥っており、西山は結局それに乗じて十数回に渡って機密文書を持ち出させることに成功した。しかし、6月17日に沖縄返還協定が締結され、取材の必要がなくなり、6月28日に渡米し8月上旬に帰国した後は、女性事務官に対する態度を急変して関係も立消えとなる。
1972(昭和47)年3月27日、衆議院予算委員会で社会党の横路孝弘議員・楢崎弥之助議員が外務省極秘電信を暴露したことが発端となった(第68回国会 予算委員会 第19号議事録)[4]。
暴露されたのは1971年5月28日付で愛知揆一外相が牛場信彦駐米大使に宛てた、愛知外務大臣とアーミン・マイヤー駐日大使会談の内容及び、同年6月9日付けで福田赳夫外相臨時代理と中山駐仏大使の間で交わされた井川外務省条約局長とスナイダー駐日公使との交渉内容の合計3通だった。
この電信内容は、返還に伴う軍用地の復元補償で、米国が自発的に払う事となっている400万ドルを実際には日本が肩代わりする旨の密約の存在を露呈させるものだった。
これらは西山が横路に手渡したものであり、当然ながら野党は大きく問題にしたが、政府側では「政争の具にした」と認識し、誰が・なぜ・いかなる目的を持って機密文書を漏洩したのか、その背後関係を調べようとした。
1972年3月30日、外務省の内部調査で、女性事務官は「私は騙された」と泣き崩れ、ホテルで西山に機密電信を手渡したことを自白した。西山は、電信内容から個人情報の手がかりを消すことなく横路に手渡したため、決済欄の印影から文書の出所が判明した。
1972年4月4日、外務省職員に伴われて女性事務官が出頭、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で逮捕。同日、同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で西山も逮捕される。逮捕された西山は情報源が女性事務官であることを特に秘匿せず供述している。
1972年4月5日、毎日新聞は朝刊紙上に「国民の『知る権利』どうなる」との見出しで、取材活動の正当性を主張。政府批判のキャンペーンを展開した。
1972年4月6日、毎日新聞側は西山が女性事務官との情交関係によって機密を入手したことを知る。しかし、この事実が世間に公になることは無いと考えて、「言論の自由」を掲げてキャンペーンを継続。
1972年4月15日、 起訴状の「女性事務官をホテルに誘ってひそかに情を通じ、これを利用して」というくだりで、被告人両名の情交関係を世間が広く知るところとなる。ちなみに、この起訴状を書いたのは当時東京地検検事の佐藤道夫(のちに第二院クラブ、民主党参議院議員)であった。こうして、世論は問題の中心をスキャンダルと認識し、密約の有無から国民の目はそれていった。また、政府は国家機密法案の制定を主張した(ただし、2008 年現在も成立していない)。
ここに及んで毎日新聞は夕刊紙上で「道義的に遺憾な点があった」とし、病身の夫を持ちながらスキャンダルに巻き込まれた女性事務官にも謝罪したが、人妻との不倫によって情報を入手したことを知りながら「知る権利」を盾に取材の正当性を主張し続けたことが世間の非難を浴び、抗議の電話が殺到。社会的反響の大きさに慌てた毎日新聞は編集局長を解任、西山を休職処分とした。
1974(昭和49)年1月30日に一審判決。事実を認めた女性元事務官には懲役6月執行猶予1年、西山には無罪の判決が下される。検察側は西山について控訴した。
ここまでの過程で、核心の「密約」に関するマスメディアの疑惑追及は完全に失速。